日中戦争の勃発

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昭和十二年(一九三七)七月七日、一触即発状況にあった日中両軍の間で発砲事件を契機に戦闘が始まった。盧溝橋(ろこうきょう)事件の勃発である。当初政府は不拡大方針を声明し現地での解決を要請していた。だがその一方で近衛文麿首相自ら、政財界や言論報道界に挙国一致を要請して協力を仰いだ。十一日、政府は事件を「北支事変」と命名し、国民総出で中国と戦うよう呼びかけた。関東軍に引きずられる形で事変を拡大してきた満州事変とは違い、この時は政府自らが出兵を容認し、国民全体に総動員を呼びかけたのである。一度は現地交渉が成立し事件は収まるかに見えた。けれども政府が出兵を決定してしまった以上、戦闘は拡大の方向をたどった。戦火が上海に飛び火すると、当初は事変の拡大に消極的だった海軍も艦隊を出動させ、次第に事変は拡大する傾向を強めていった。

写真19 日中戦争勃発時の『弘前新聞』

 新聞も盧溝橋事件勃発以来の日本軍の成果を大々的に掲載し事変を背後から支えた。その影響もあってか、国民は事変の拡大と戦局の進展を歓迎した。とくに蒋介石政府の首都南京を攻略していた十二月十一日には、南京陥落を前に派手な提灯行列を繰り広げるなど、日本各地で祝賀行事が催された。だが日本軍が南京陥落の直後に大虐殺を起こし、戦後に大問題となったことを、弘前市民はもちろん、当時の国民は知るよしもなかった。
 日本軍が南京陥落を目指して進軍していた十月二十五日、政府は企画庁と資源局を統合し企画院を設置した。この企画院を中心に軍需動員政策が進められ、総動員体制が構築された。けれども戦局は南京陥落後も蒋介石が首都を重慶に移して抗戦するなど、国民が祝賀したようには進展しなかった。むしろ戦局は日本軍が広大な中国大陸に進撃すれば進撃するほど泥沼化しだした。十一月十八日に大本営令が公示され、二十日には宮中に大本営が設置された。昭和十三年一月十一日、政府と大本営は「支那事変処理根本方針」を御前会議で決定し、中国国民政府が日本に和平を求めない限り相手にしないと決定した。その結果が有名な「爾後国民政府を対手とせず」の第一次近衛声明である。この一連の経過により和平への道は閉ざされ、以後日中戦争は全面戦争化の様相をたどった。国民そして弘前市民も次々と動員されることになるのである。
 近衛内閣は昭和十三年四月一日、国家総動員法を公布し、五月一日に施行した。六月九日には文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を実施し、勤労動員も始まった。すでに二月二十五日には兵役法が改正され、学校教練修了者の在営期間短縮の特典は廃止されていた。政府は次々に国民動員政策を打ち出していった。しかしこのような命令だけで国民が安易に動員されたわけではない。動員されるには動員されるだけの保障がなければ国民は戦場に出向かないと思われる。天皇制イデオロギーや精神主義的な思想改造だけでは、国民は生命の危険を冒し家庭を犠牲にしてまで戦場に向かわないのではないか。国民が動員に応じるだけの措置や配慮があり、動員される人々の家族にも一定の保障が与えられたからこそ、国民は戦場に出ていけたのである。そしてその措置を提供し、一定の保障を配慮するのが地域に課せられた課題となったのである。
 政府や軍が推し進めた総動員体制は、軍需物資を中心とする物資の動員と、徴兵や勤労動員に代表される国民動員に分けられよう。前者は資源の大半を海外に依存している日本にとって死活問題だった。当然それは国内資源の根こそぎ動員となり、結果的に国民からの供出に依存することになる。国民は生活物資の配給と統制を強いられた。国内資源の開発対象は、主として東北振興政策の対象となった東北地方や北海道に向けられた。他方後者は近衛新体制運動など、さまざまな政治的試みがあったが、現実的には既存の行政機構を活用した動員システムに則って国民は戦場や銃後に動員された。その動員システムにもっとも大きな役割を果たしたのが各府県ないし市町村当局だったのである。

写真20 国民精神総動員に垂れ幕を掲げた角はデパート

 国民動員体制については、日中戦争の勃発以前からさまざまな計画がなされていた。けれどもそれが実際に展開されるようになったのは、政府自らが挙国一致を呼びかけた日中戦争以降である。そしてその動員体制は事変が泥沼化し、解決の糸口が見つからなくなるにつれて徹底され、動員される国民の年齢層や各階層も拡大し、最終的には根こそぎ動員となっていくのである。