だが戦局が悪化するにつれて、赤十字の活動に対して軍当局からの義捐金募集要請が強くなり、社員募集・資金募集の要請も強制的になっていった。昭和十八年(一九四三)七月二日、日本赤十字社青森支部長から各町村区長宛に出された通牒を見ると、毎戸一人以上の社員を募集する要請もあった。弘前市周辺でも、二月二十三日付で中津軽郡地方事務所長から各村長宛に同様の通達があった。通達文には「救護員ノ必要ニ迫ラレ之ガ経費ハ大方篤志家ノ拠出ニ待ツノ外無之」とあり、表向きは庶民の自発的な意志に基づくとしているが、実際には強制措置に近い状況だったと思われる(同前No.一一八参照)。
ちなみに昭和二十年一月四日付の中津軽郡に対する社員募集通達を見てみよう。各村ごとの統計があり、募集社員数や不足数などが記され、中津軽郡内の社員募集状況が具体的に理解できる。同じ郡内でも相当の差異があることに驚くだろう。清水村や和徳村、藤代村などは割当を完了していただけでなく超過人員を出している。藤代村は配当社員数が他村よりも異常に多かったが、それでも募集人員を激増させ、六六人の超過分を出す勢いである。逆に岩木、豊田、相馬、千年、裾野の各村は二〇〇人以上の不足数を出しており、岩木村にあっては五四二人の不足を出している。
だがこの数値が各村民の赤十字事業に対する好意を示し、軍人援護活動への自発性を示すというわけではない。同じ郡内での募集人員の大きな差異こそ、募集活動に対する関連当局の強制的措置がはたらいたことを示唆するのではないか。実際に赤十字自体も「軍ノ本社ニ対スル要請愈々重大且急迫ヲ告ケ」ていたと述べている。戦争末期の昭和二十年に入ってからは、軍の要請も強制的となり、資金募集のための配当社員の募集は、隣組組織などを通じて強制的に実施されたと思われる(同前No.一一九参照)。
写真27 赤十字社員募集の通達を綴った簿冊