酒造業

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明治三十一年度(一八九八)から昭和二年度(一九二七)まで、本県の酒醸造査定石数は表5のとおりである。明治三十一年度以降減少していくが、大正期に入り、大戦景気が到来すると地場産業育成のため、県は醸造技師を採用して、酒造業者の指導に当たらせた。するとまもなく品質の向上がみられ、優良酒が醸造されるようになり、査定石数は増加していった(東奥日報社『青森県総覧・復刻本』津軽書房、一九九八年)。
表5 酒造査定石数(明治31~昭和2年)
酒造年度査定石数(石)
明治3172,183
3469,347
3749,975
4058,648
4357,276
大正245,681
561,605
881,825
1186,315
1481,845
昭和276,814
前掲『青森県総覧・復刻本』より作成

 かつて、上方よりの下り酒は品質がよく、地酒は悪いものと相場は決まっていたが、昭和に入ると地酒の品質が向上し、品評会に入賞するような銘酒が登場してきた。昭和七年の日本醸造協会主催第十三回全国清酒醤油品評会において、弘前市紺屋町の酒造業川村東一郎の出品した「一洋」が優等に入賞したのは、本市酒造業界にとって画期的な出来事であった。それは、これまで吟醸に用いる米は備前・播州・秋田米などに限られていたが、「一洋」は津軽米を使用して吟醸された清酒であった。この出来事が津軽米の名声を高めることになり、さらに弘南地域の清酒が本品評会で全国一の入賞率を示したことで、全国的な銘酒として認められるようになった(『東奥日報』昭和七年十二月十五日付)。また、昭和十三年の第十六回全国清酒品評会では、津軽酒八点が優等賞を獲得し、特に「一洋」は酒界の王者と称されるようになった(『弘前新聞』昭和十三年十一月十八日付)。
 しかし、戦時体制の昭和十九年になると、米の増産政策のもと、酒造米は減産を余儀なくされたため、酒造は合成酒が中心とならざるを得なくなった。

写真34 優良八点の銘酒(『弘前新聞』昭和13年11月18日付)