大正期から昭和戦前期にかけて、全国各地で軽便鉄道の敷設申請が出されているが、その多くが却下されている。弘前地方においても大正十年(一九二一)に岩木鉄道(弘前市-中津軽郡西目屋村間)の敷設が許可されたが、仮創立事務所が置かれた東京市が関東大震災に見舞われたため、その準備作業がはかどらず、昭和四年には免許は返納され失効した。
しかし、昭和十年(一九三五)には再び目屋鉄道敷設期成同盟会(会長は弘前市長石郷岡文吉)が内閣総理大臣岡田啓介に対して、大正十一年の全国鉄道敷設法において予定線に指定されているとしてその速成を請願した(資料近・現代2No.二一八)。また、昭和十六年には、非常時局下高度国防国家建設を理由に、海軍大臣及川古志郎にも同陳情がなされた(同前No.二一九)。さらに昭和十七年にはこの予定線を五能線岩崎駅もしくは深浦駅に延長する日本海貫通鉄道の敷設が申請された(同前No.二二〇)。その理由としては、岩崎および深浦が朝鮮・満洲ならびにウラジオストクに最短航路の軍事上重要な港であり、またその沿線には鉄や石炭などの地下資源が埋蔵されているというものであった。そして仙台鉱山監督局に対して鉄道予定線付近の資源調査を依頼したが、昭和十八年に出された調査概況説明書によれば、弘前以西砂子瀬付近までは鉱区が密集しているが、その先から日本海までの険峻な山地は期待が薄いので、弘前-砂子瀬間を重点的に考慮すべきであるというものであった(同前No.二三一)。
もう一つ却下された鉄道敷設計画として、昭和四年と同七年に申請された弘藤鉄道(弘前市-南津軽郡藤崎町間)がある(同前No.二一四)。これは、既存の弘前-川部間(奥羽本線)、川部-藤崎間(五能線)に並行し、かつ、乗合自動車路線が二線営業しているので、その必要性はないという理由から申請が却下された。