昭和初期の弘前女学校

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昭和三年十二月、校長ミス・ラッセル日本における伝道と教育の任務を終え、母国アメリカへ帰国した。在任期間は一二年余であった。弘前女学校のその後の発展は、このラッセル校長時代に負うところが大きい。代わって校長になったのは、大正七年からラッセル校長を助けていたミス・カーティスであった。昭和四年の生徒数は二七〇人、九クラス編成、教師の数は二七人である。
 この年の十月、ミス・ラッセル時代から念願としていた新校舎が落成した。アメリカのミッション・ボード(外国伝道局)の寄贈金五万ドルと同窓生の寄付金を充てて建てられたもので、施工者はクリスチャン棟梁として有名な桜庭駒五郎である。この校舎は、坂本町にあって、ミッションスクールらしい雰囲気を持った風格のある建築物として、長いこと市民に親しまれた。
 カーティス校長に代わって、昭和五年から中川まさご校長が赴任した。初代本多庸一を除いては、外人女性校長によって学校経営がなされていたが、日本人校長の出現は一つの転機ともなった。中川校長となった翌六年からは、四方拝の式、出征兵士の見送り、招魂社の参拝、満州事変記念閲兵式にも参加するなど、時局に合わせた対応をしている。だが、軍の見方は必ずしも好意的ではなく、憲兵隊がそれとなく調査などをしたりして目を光らせていたという。