昭和十年四月、青年学校令が公布され、軍事訓練が主目的の青年訓練所と、一般教育を行う実業補習学校は統一されることになった。対象となる年齢もほぼ同じであり、教育内容も似通っていたので、いっそのこと両者を合併させ、充実を図ろうとしたのである。
弘前市では、この機会に市立商業専修学校を三年制の乙種商業学校に変更することにして申請していたが、十月に認可が下りた。こうして市立商業学校が誕生した。三年制の商業学校になって、生徒数は三〇〇人に増えた。高等小学校と併置という形は変わらなかったが、蔵主町から本町の校舎に移転し、昭和十二年三月には、乙種商業学校になって最初の卒業生を世に送った。十四年になってようやく分離独立し、蔵主町の旧校舎を使うことに決まり、一月の十日、十一日の二日がかりで職員生徒が全員で引っ越しをした。弘商は、終戦後に原ヶ平字中野 (現中野一丁目)に移るまでここを教育の拠点としたのである。
昭和十六年四月、弘商は五年制の甲種商業学校に昇格した。そして定員六学級三〇〇人であったのを、五学級二五〇人に改め、校歌を制定している。当時の卒業生平尾俊三(昭和十七年度卒)の回想にはこう書かれている。
我が校も甲種商業学校に昇格し、始めて五年制の学校になり、我々が最初の四年生となってからは、母校の為にも後輩の為にも、良い手本とならねばと、四年生一丸となって、学業は勿論スポーツにも、力を入れ技術をみがきました。そのかいあって、(中略)一、二のクラブでは優勝することもしばしばあり、我々上級生は、だんだんと、他校に対してのコンプレックスをなくし、やれば出来るんだと言う考えと、不撓不屈の精神を植えつけ始めました。
(『弘実10年誌』)
昭和十九年になると、戦局は日増しに重大になり、軍需生産の拡大から大量の技術者が必要となった。弘前市でもこれにこたえて、同年四月、四年制の弘前市立工業学校を新設したが、この学校は蔵主町の弘商に併設された。中等学校の生徒が勤労動員されたことは、さきにも見てきたが、弘商も例外ではなく、四、五年生が三本木近郊の排水溝作業に、七月には弘商報国隊として大湊軍港作業部に動員され、翌年の三月に現地で卒業している。三、四年生は黒石地区の板留・黒森・大川原の産業道路工事に汗を流した。
市商と市工を合体させた弘前市立商工学校(二十一年四月改称)から、元の弘前市立商業学校になるのは昭和二十二年のことである。