津軽のナショナリズムに直接的に影響を与えたのは、医師伊東重(安政四-大正一五 一八五七-一九二六)の養生哲学である。伊東は藩医家久の子、東奥義塾に学び、ジョン・イングから受洗、明治十九年東大医学部を卒業した。明治九年(一八七六)七月明治天皇青森行幸の際、御前で「シセロ カテソンを詰(なじ)る」の英語講演を行った。大学では、東奥義塾の師で理学部生物学科で学んでいた岩川友太郎の手引きでモールスの進化論を聴講し、生存競争・優勝劣敗・自然淘汰の理論に深く心を動かされた。
明治二十一年(一八八八)、彼は弘前病院の院長だったが、病院の仲間と『田舎新誌』という雑誌を発行、その第五号に次のような思いを発表した。
「見よ一国の盛衰存亡、一人の栄枯浮沈遠く之を史乗に求るに及ばず、目前此の理に支配されつゝあるにあらずや、韓退之(かんたいし)の所謂「弱之肉強之食」、西洋人の所謂「強者の権利」豈(あに)偶然ならんや。然らば十九世紀の今日に当りて、徒らに口に仁義を唱へ、心に「アーメン」を念じ、道徳のみを以て世に立たんと欲するの希望は、寧ろ結構なる夢と謂ふべし。」「健康なる精神は健康なる身体に存す」「退いてわが地方人民の体質を見るに壮年の者は咳嗽咯痰(がいそうかくたん)に苦しみ、幼年のものは耳漏頭瘡(じろうとうそう)徒らに父母の膝下にのみ徘徊して、戸外活潑に遊戯するを見ず。今日早く之が挽回策を講ぜずんば、何れの日か西国男子と優劣を争ふべけんや、何れの日か白皙(せき)人と生存を競ふべけんや。」と、国内では西日本の薩長勢力に支配され、国際的には欧米白人に抑圧されている東北人、つまり津軽の人々に気合いをかける。
そして結論として「脳力体力資力なければ人類の生存し能はざるの理を悟り」、「生存力は則ち競争力なれば、此の三力に各々多少の余力を養存して余裕と名づけ」「資力に余裕を生ずる道を養財、体力に余裕を生ずるの道を養体、脳力に余裕を生ずるの道を養神と名づけ、これを総称して養生と名づく」とまとめ、養生生活によって劣敗の禍を免れ、優勝の勢を制しうることを期すとした。伊東は『養生新論』を陸羯南や本多庸一に贈ったところ、ちょうど羯南が新聞『日本』紙上で国際論を展開して条約改正運動を牽引していたときで、全く同感と言って、より大冊にすることを求め、本多庸一も賛同して『青山評論』で批評した。二十六年『東京医事新誌』は四回連載した。かくて伊東は明治二十七年養生会を組織し、明治三十年旧稿に増補して『養生哲学』を東京南江堂書店から発売した。養生会の発足は、明治二十七年初頭に陸羯南が弘前に帰省したとき、島田胖らの青年たちが国事について教えを請うたが、羯南は『養生新論』を推賞して伊東重の教えを受くべきことを諭し、青年たちが同年三月二十日(第三土曜日)に第一回の養生哲学の講義を聴いたことに始まり、毎月第三土曜日に集会が開かれ、伊東重の逝去まで続けられた。