県内における組織化と弾圧

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本県では、弘前の北部無産社や政治研究会支部の活躍が見られたが、中央に正式の無産政党が誕生する前の大正十四年九月に、弘前の堀江彦蔵、黒石の柴田久次郎、車力の岩淵謙二郎無産政党県支部準備委員会を開いていた。そして、大正十五年九月十日、労働農民党県支部連合会がスタートした。昭和二年三月八日、労農党弘前支部が発会式を挙げた。しかし、労農党は三年四月に結社禁止となり、解散させられた。この禁止措置は、三年(一九二八)二月の第一回普通選挙において無産政党から八人の当選者をみたほか、日本共産党が機関紙『赤旗』を刊行、労農党を偽装して公然とその姿を大衆の前に現したからである。かくて、総選挙の翌月の三月十五日、全国的に大検挙が行われた。三・一五事件という。検挙者は一〇〇〇人、起訴された者八〇人余と言われる。
 このころ、本県には、共産党と組織関係はなかったが、共産党と同伴的関係にあった労働農民党が党員一六〇人(うち弘前支部五〇、黒石支部六〇)、無産青年同盟県支部会員一〇〇人(責任者は弘前の高坂通世・堀江彦蔵)、青森一般労働組合一〇〇人がいた。これらの指導者格を各警察署は引致したが、結局全員釈放された。もっとも、中央で活躍していた斉藤久雄(党名藤原久)は共産党最高指導部の一員として懲役九年、彼の弟の勇は執行猶予つきの二年、雨森卓三郎は全日本無産青年同盟の責任者として求刑一〇年、判決で九年という重刑を受けた。本県では労農党は津軽地方で勢力を伸ばし、社民党や日労党は県南地方に重点的に根を下ろした。