昭和十二年七月、弘前市役所は、十二年度失業応急事業施行認可の申請書を政府に提出した。それによると、昭和七年以来の失業応急事業によってこれまで労働者は救われてきたが、事業の完成によって再び職を失った者、六月現在六六〇人、その中の四〇〇人は特に救済が必要とされるとある。日本経済は漸次活況を呈し、特に軍事工業地は大活況を呈しているが、弘前はその影響が少なく、銀行倒産などによる中小商工業者の疲弊、凶作による農村の回復はいまだ見ず、市民の消費力は極度に減退、各種の事業は休止のままであると窮状を述べている。
この三年前の昭和九年三月末日、弘前市と周辺のサラリーマンの数は一五三五人で、そのうち二四四人が失業、失業率は一五・九%、日雇い労働者は男女合わせて三九二八人だが、一〇一九人が失業、失業率は実に二五・九%、特に男子は三一・七%、その他の労働者は四六四八人、失業者六三五人、失業率一三・七%だった。賃金は、人夫一日九〇銭、荷馬車夫一円六〇銭、大工一円七〇銭、運転手一円八〇銭だった。失業原因の九〇%以上は業務縮小と業務休止である。
生活を守るため、県下一五地区に消費組合が結成された。弘前と周辺には次の組合があった。
組合名 住所 組合長
弘前消費組合 弘前市大町 古木名眞太郎
和徳消費組合 中郡和徳村百田 佐藤多三郎
黒石消費組合 南郡黒石町 柴田久次郎
藤崎消費組合 南郡藤崎町 竹島儀助
伝馬分店 同町伝馬 清藤多作
下町支部 同町横町 山本久兵衛
中川消費組合 南郡浅瀬石村 斎藤常太郎
常盤消費組合 南郡常盤村 浅利 崇
浪岡協同組合 南郡浪岡村 浅利 崇
これらの組合は日本無産者消費組合連盟に加盟しており、昭和七年十一月十四日、黒石消費組合と全農青年部を中心にいわゆる新生共産党事件として検挙が行われ、県内各消費組合の代表者や幹部も検挙され、起訴された者は少数だったが、消費組合運動は弾圧と干渉にさらされ、非常時のかけ声の下に消えていった。