ストライキの諸相

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本県の労働組合は、大正十四年十月の青森合同労働組合の結成によって組織化された。同組合は、昭和二年八月「青森一般労働組合」と改称、組合員一八〇人で、国鉄従業員が多く、弘前にも支部ができた。しかし、治安維持法による弾圧が、昭和三年の三・一五事件、翌年の四・一六事件と続き、組合指導陣が壊滅した。しかし、同年六月、早くも弘前、八戸、五戸と続けざまに地元企業従業員を中心に事業所単位に再建された。
 弘前では、昭和五年に、弘前キネマ館(新鍛冶町)で不払い賃金即時支給を要求して、四月二十二日、二十三日に総罷(ひ)業(ストライキ)を行った。従業員六人が全員参加し、要求が容(い)れられた。また、弘前乗合自動車株式会社でも昭和五年十二月四日従業員解雇問題で争議が起き、弘前警察署長の調停で解雇取消し、夜勤手当支給をかち得た。昭和七年春、非常時という時世で労働運動は逼塞(ひっそく)状態となった。しかし、不況を理由に三回も賃下げされた弘前タンス製造販売振興会の職工一八〇人はストによって一割を盛り返し、シンガーミシンの国際的な争議に弘前出張所も参加した。また、徒弟制度の津軽塗職工たちも待遇改善を要求した。
 昭和八年、中津軽郡西目屋村川原平の津軽金山鉱業所鉱夫一〇〇人は、八時間労働制と賃金値上げを要求してストライキに入り、八時間制と日給三~五銭の引き上げをかち取った。昭和九年五月、弘前ダンス製作の職工は再び給料一割増を要求してストライキを起こし、要求を貫徹した。昭和十一年九月、中津軽郡新和村青女子(あおなご)の製材所閉鎖争議には社会大衆党県連(執行委員長中浦秀蔵、書記長岩淵謙二郎)が指導介入し、工場主が退職金を二〇人の職工に支給した。