忠霊塔の建設

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西茂森の丘上に聳(そび)える忠霊塔の建設について、葛原市長が亡くなってのち、その死を追悼して編まれた『故葛原運次郎先生 恩師のみ影』という記念誌に、その詳しい経緯を述べた一文がある。これによると、忠霊塔の「本尊」は、大鰐町の伝説的な名木「萩桂」を体材として、弘前出身の彫刻家三国慶一が腕をふるった作品である。昭和十八年七月七日晴天無風の朝、突如青葉の茂った萩桂が地上一丈で倒れた。当時の弘前師団の軍用土地建物係のHは、忠霊塔が一面陸軍墓地の性質を帯びているので建設に関係していた。彼は葛原運次郎の教え子であった。葛原市長が弘前忠霊顕彰会長でもあったので、この名木を本尊とすることと忠霊像の作者のことを頼んだ。時局は厳しく、高層の石造建築物なのに鉄筋はまばらだった。しかし、一般市民はもちろん、小学生、婦人会、中学生、女学生まで石運びに協力する姿に、敢然これが完成を決意した。市長の純朴至誠に動かされ三国は引き受けた。しかし、忠霊塔は、建設費の募金も不足で彫刻の費用は全くなかった。この苦況を救ったのが、やはり葛原市長の教え子Mの寄附だった。忠霊像は旗を光背代わりに兜鎧に太刀を横たえ、太刀は右手で固く押さえ、足元には浄火が渦巻き、高さ八尺という。軍神像とも防人像とも言われる。

写真98 忠霊塔建設の勤労奉仕

 昭和二十年三月、東京は大空襲に遭い、さらに赤羽の三国のアトリエが強制疎開にかかった。このときも市長は活躍し、陸軍被服本廠の特別協力を得、迎えにいった市民の手で、青山石勝で彫った元第八師団長菱刈大将揮毫の大文字「忠霊塔」の花崗岩とともに三月二十六日赤羽駅発送、三十日弘前に到着した。七月三十日、建設費不足分七万円に対して、川口ゴムから三万円、他にも大口寄附が四つ五つ出現して解決した。八月十五日終戦となり、九月二十六日米軍は弘前へ進駐してきた。忠霊塔軍国主義の象徴として破壊される危機に面したが、青森軍政府の宗教政策からいけば、古来の仏天、仏神に基づくものであることを説明すれば理解を得られるはずだと葛原市長は動じなかった。また、この問題は、長年合衆国で貿易商・新聞記者として活躍した斎藤庫次郎(くらじろう)(弘前の医師斎藤周蔵の叔父)の適切な説明で難を免れた。
 十一月五日、塔の落成式と納骨式と忠霊像の開眼供養式が行われ、昭和十六年起工以来五年の歳月を閲し、約二〇万円の浄財と老若男女数万人の勤労奉仕によって、東北随一の偉観を持つ事業が完成した。葛原運次郎は、それから一ヵ月後の昭和二十年十二月十七日午後三時、「大丈夫だ」の一語を残して脳溢血に倒れた。行年六十六歳。
 なお、忠霊塔は、昭和二十三年五月、「仏舎利塔」と改称された。