写真98 忠霊塔建設の勤労奉仕
昭和二十年三月、東京は大空襲に遭い、さらに赤羽の三国のアトリエが強制疎開にかかった。このときも市長は活躍し、陸軍被服本廠の特別協力を得、迎えにいった市民の手で、青山石勝で彫った元第八師団長菱刈大将揮毫の大文字「忠霊塔」の花崗岩とともに三月二十六日赤羽駅発送、三十日弘前に到着した。七月三十日、建設費不足分七万円に対して、川口ゴムから三万円、他にも大口寄附が四つ五つ出現して解決した。八月十五日終戦となり、九月二十六日米軍は弘前へ進駐してきた。忠霊塔は軍国主義の象徴として破壊される危機に面したが、青森軍政府の宗教政策からいけば、古来の仏天、仏神に基づくものであることを説明すれば理解を得られるはずだと葛原市長は動じなかった。また、この問題は、長年合衆国で貿易商・新聞記者として活躍した斎藤庫次郎(くらじろう)(弘前の医師斎藤周蔵の叔父)の適切な説明で難を免れた。
十一月五日、塔の落成式と納骨式と忠霊像の開眼供養式が行われ、昭和十六年起工以来五年の歳月を閲し、約二〇万円の浄財と老若男女数万人の勤労奉仕によって、東北随一の偉観を持つ事業が完成した。葛原運次郎は、それから一ヵ月後の昭和二十年十二月十七日午後三時、「大丈夫だ」の一語を残して脳溢血に倒れた。行年六十六歳。
なお、忠霊塔は、昭和二十三年五月、「仏舎利塔」と改称された。