朝日シードルの進出

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県産りんごの生産量は、戦後、不作の年があったものの増産を続け、昭和二十七年(一九五二)には二〇〇〇万箱を超えるほどになった(表22)。第一次世界大戦反動恐慌以降、繭価の下落により養蚕業からりんご栽培に転換した長野県など、大消費市場である東京に近い地域のりんご生産が安定してくると、県産りんごは生りんごだけの販売では競争に耐えられなくなり、加工販売事業の拡大が急務となっていった。こうして、加工事業拡大が期待されるなか、二十九年六月二十五日、日本酒造会社(弘前市住吉町)社長の吉井勇アサヒビールと提携し、資本金一億円で朝日シードル株式会社を設立する。吉井は約二ヵ月間にわたり欧米の果実加工業界を視察した際、シードルというフランスなどで広く大衆に愛飲されている、ビール特有の苦みをりんごの甘みに変えた清涼飲料的ビールに着目し、これを家庭だんらんの酒にしようと考え、加工原料りんごの消費量一〇〇万箱を目標に、フランスの技術を導入してシードルの製造を開始する。販売ルートは、アサヒビールの販路に乗せることができた。このようにシードルは、りんご加工業の新たな分野の開拓として期待された(資料近・現代2No.三九九)。

写真116 朝日シードル会社の工場となった吉井酒造煉瓦倉庫


写真117 朝日シードル

 そして、シードルの製造が本格化すると、宣伝カーで全国を回るほど積極的な販売活動が行われた(『陸奥新報』昭和三十一年七月五日付)。

写真118 朝日シードル宣伝カー