バス事業の復興・伸展

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弘南バス株式会社は、戦後の車輛や燃料及び部品等の不足により休止を余儀なくされた路線の再開や、弘前市街地との往来にいまだ不便を強いられている地域への路線開通に努めた。すなわち、昭和二十三年ごろからようやくガソリンや物資が出回り始め、鬼沢線、船沢線が再開されたほか、弘前-青森間、弘前-黒石間の開設が見られたのである。なかには千年村(現弘前市千年)のように、住民挙げて道路の補修整備に当たり、その開通を望む地域もあった(同前No.四一三)。さらに弘前-十腰内線、弘前-高山線等の路線の長距離化か相次ぎ、昭和二十六年には板柳営業所を開設、二十八年には板柳バスを買収統合した。
 さらに昭和三十年(一九五五)三月、弘南バス株式会社は五所川原市に本社を置く津軽鉄道株式会社からバス事業(一般乗合旅客自動車運送及び一般貸切旅客自動車運送事業)の譲渡を受けた。津軽鉄道株式会社は、昭和三年二月に会社設立(資本金一〇〇万円)、昭和五年七月に五所川原-金木間一二・八キロメートルで鉄道の営業を開始した。その後、西津軽郡及び北津軽郡で個人営業していたバス企業を次々と買収し、昭和十六年には国策としての自動車事業の統合により西郡・北郡のすべてのバス事業を手中に収めた。しかし、終戦を挟んで起きた二度の五所川原大火によって、本社社屋をはじめ会社の諸施設の大半が焼失する被害に遭い、戦後は厳しい経営を強いられ、結局バス事業から撤退せざるを得なくなったのである。
 このように弘南バス株式会社は路線拡大に努めていったが、冬季積雪期間の路線確保には頭を痛めた。つまり昭和二十年代までは道路の除雪を行う自治体はなく、積雪によってバス路線そのものがなくなってしまうのである。そこで、同社は、幹線道路の除雪のために昭和二十七年に旧陸軍の中型戦車を二台購入し、その前部に除雪板を取り付けて、三十年代半ばまで使用したのであった。

写真121 下土手町十文字(昭和29年)