写真125 澁川伝次郎
りんご協会発足当初の活動は、りんごの公定価格引き上げ運動、りんご栽培講習会・農村青年大学の開催、りんご協会叢書刊行、りんご樹財産税反対及び評価額の交渉、りんご試験場存置運動などである。
昭和二十二年(一九四七)から開始された生産者に対する教育活動であるりんご栽培講習会は、同二十四年りんご青年講習会、同二十五年農村青年大学と名称を変えたが、ここで農閑期に栽培と経営の知識を若い生産者に注ぎ込んだ。その内容は、単なる生産技術にとどまらず、政治、社会、経済と多岐にわたり、りんご栽培に生きる農村青年に豊かな社会性を賦与するものであった。農村青年に読むことを習練させるためにりんご協会叢書が刊行され、りんご試験場の技師が栽培の基礎的技術から最新技術まで、各専門分野について解説して、若いりんご栽培者の知識欲を満たすことに貢献した。
昭和二十二年(一九四七)、GHQは政府に対して試験研究機関の統廃合を指示した。りんご協会会長の相馬友彦や対馬竹五郎は、GHQ天然資源局のオーエン氏が来青したとき、りんご試験場の設立の意義と生産者との強い結びつきについて説明し、生産振興に果たしてきた役割を理解させ、試験場の存続と充実強化に尽くした。また、昭和十二年を最後に途絶えた立木品評会は、戦後りんご協会主催で復活し、昭和二十二年から開催された。優秀園は模範園として公開され、そこへ視察者が殺到したため、技術向上に果たした役割は大きかった。
昭和二十五年(一九五〇)、りんご会館を弘前市中心部の北瓦ヶ町に建設した(のち昭和五十年、城東中央三丁目へ移転)。りんご協会の活動は、その後も順調な展開を見せ、生産者の立場を守りながら、外には農政活動、内には教育活動を展開した(『喜びと悲しみと怒りと りんご協会の50年』、一九九六年)。
このような自主的な農民組織の活動は、明治以来の津軽産業会の伝統を引き継ぐものと言える。
写真126 北瓦ヶ町時代のりんご会館