終戦による混乱は弘工も例外ではなかった。食糧難は生徒にも深刻な影響を与えた。昭和二十一年五月に調べた統計が『弘工六十年』に載っており、その辺の消息を知ることができる。
昼食携帯困難セヌ者 無理ナルガ携帯セル者 携帯スルタメ家族欠食スル者 携帯不可能ナル者
携帯不可能ナルタメ授業短縮希望スル者 携帯困難ナルモ授業短縮ヲ希望セヌ者
調査項目そのものにこの時代の事情がよく分かる。弁当を持ってこられないので、授業短縮を希望する者が七四%にもなっている。弁当を持たせるために家族が欠食して我慢しているのが三二%もある。戦後の混乱ぶりがうかがわれる貴重な資料である。昭和二十年十二月、終戦によって不要となった航空機科が木材工芸科へ改組され、二十一年には工業化学科が新設された。二十二年には、市立商工学校に移管されていた電気科が、商工学校が商業学校へ戻ったことで再び本校へ移管され、この時点での弘前工業学校は、建築科、木材工芸科、機械科、土木科、電気科の五科となった。
終戦の年の十月、弘工の四年生かストライキを行った。要求事項が六項目あるが、特に差し迫った要求というよりも、世相全般への鬱憤を晴らすための要求であったともとれる。ただ、面白いのは、「生徒に対して動物的取り扱いをするな」という一項があり、現代風にいえば、さしずめ人権を尊重せよということであろうか。また、「食糧確保になるまで午前授業にすべし」という一項目は、さきの統計でも明らかになった食糧事情の悪さをすでに物語っているものであろう。このストライキは小規模なもので、一日限りで収まった。
昭和二十三年四月、青森県立弘前工業高等学校と改称された。新制高校の発足と時を同じくして、定時制が開設された。能力のある者は誰でも教育を受ける機会が与えられなければならないという理念から生まれたものであった。まず、木材工芸科一科でスタートし、その後電気科、機械科が増設されている。定時制は、地域的に通えるように分校を設置したこともあるが、生徒の確保が難しく、大浦分校は短期間で弘前中央高校に併合され、二十八年度から開校した堀越分校も三十四年度には廃止されている。
この時期、弘工の運動部を代表したのは、陸上競技部とボクシング部で、陸上は二十四、二十五年に投てき種目で優勝するなど総合でも好成績を収め、また、ボクシング部では、昭和二十五年からの外崎剛男のインターハイ三連覇があり、その後も優勝または上位に入賞する者が相次ぎ、ボクシング部の黄金時代となった。
老朽化した雨天体操場しかなかった弘工では、早くから体育館の建設が渇望されていたが、PTA、同窓会が一体となって、しかも創立五十周年記念事業と抱き合わせた猛運動の末、ついに三十三年には着工にこぎつけ、東北では二番目といわれる斬新な円形体育館が完成した。ただ、完成直前に岩木川の大氾濫があり、工事中の体育館にも水が押し寄せた。だが、工事が少し遅れたほか実害がなかったのは幸いであった。