新制中央高校の誕生

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昭和二十三年に新制高校が発足すると、校名は弘前高等女学校から青森県立弘前女子高等学校と改められた。定員は全日制普通科七五〇人。新制中学校と同学齢にある低学年(二、三年)は併設中学校としたが、これは他高校も同様である。同年五月には、全日制に加えて定時制が併置された。
 翌二十四年、新制中学校の卒業生を受け入れるに当たり、他校に先んじて男女共学を実施することになったが、高等学校に男子生徒もいるという事態が生じた。そこで、実情に合わせて校名を変更することになり、生徒からも案を募った。「第一」や「鷹揚」「松葉」「蔵主」などが候補になったが、最も支持の多かった「第一」は、校名に第一、第二などと数字をつけるのは優劣の差別につながりやすく、民主的でないという県教育委員会からの意見があって、「津軽高等学校」となった。
 ところが、いったんは決定し、二十五年四月から改称された津軽高校という校名は、生徒・父兄はじめ、弘前市民にもいたって評判が悪く、たちまち反対の声があがった。その理由としては、「津軽」という語は封建的イメージが強く、新制高校の校名にはふさわしくないというもので、新聞の投書欄などでも活発に意見が出されたが、その年の五月に「弘前中央高等学校」と改正することで、決着を見ることになった。
 野暮ったい、スマートではないと不評だった校名が改められ、その前年に新しいカリキュラムに基づいた家庭科のホームプロジェクト法(生徒が一つの構想・計画をもって家庭で実習を行う方法)実験校として指定されたこともあり、中央高校はようやく新制高校として軌道に乗っていくのである。
 弘前中央高校では老朽した校舎の改築に先立って講堂を建設した。二十五年には朝鮮戦争が勃発して、建築資材の高騰や県財政の逼迫などで、幾度か挫折の危機に見舞われたが、創立五十周年記念協賛会の粘り強い努力と、県知事津島文治の「どうせ建てるなら立派なものを」という好意ある決断もあり、昭和二十九年九月には二六〇〇万円の巨費を投じた講堂が落成した。当初は体育館兼用の計画であったが、講堂専用のものということで、著名な建築前川国男の設計による東北一の講堂が完成したのである。固定座席八〇六席を有する本格的なもので、講演会はもちろん、演劇やコンサートの会場としても活用され、昭和三十九年に弘前市民会館のホールができるまでの間市民にも広く親しまれた。

写真137 弘前中央高等学校講堂