青森市は医専設置のために、これまで校舎や寄宿舎を提供し、多大の犠牲を払ったものを、みすみす他市へ奪われるのはまさに座視するに忍びない思いであったが、戦災復興のため、医専の大学昇格準備まで手が回らなかった。弘前市は岩淵勉市長が学園都市の構想をもって「学都弘前」を標榜し、率先して誘致運動に全力を挙げた。一方、八戸市は吹上国民学校、赤十字病院の使用が可能であることを理由に、医専誘致の意思を表明したが、弘前市、青森市ほどの熱意はなかった。
写真140 第18代・19代・21代市長 岩淵勉
文部省では青森医専を設備不十分ということで、廃校にすることを内定していた。ことここに至って、青森市に存置するのでは廃校が明らかなことなので、施設設備と環境のよい弘前市移転を条件に、挙県一致でその存続と医科大学昇格を請願することになった。こうして昭和二十二年二月二十二日、青森医学専門学校は弘前市への移転が決定し、同二十六日の閣議で、青森医専は前橋、松本、徳島、米子の各医専とともに医科大学昇格が決定したのである。
弘前市では二月二十二日「医専問題総合委員会」を組織し、医専受け入れ態勢について検討を始めたが、医専校舎として在府町の朝陽国民学校(当時は青森師範学校に附属国民学校として貸与)を充て、市立弘前病院を医専附属病院とすることにし、内部機構も四科を九科に増やすなど充実に努めた。
写真141 弘前大学医学部付属病院(旧弘前市立病院)
昭和二十三年二月十日、弘前医科大学の設置が正式に決定され、学長は医専校長丸井清泰が兼任した。五月十一日入学式、十五日開学式を挙行したが、第一回入学生は定員四〇人に対し四人しかなかった。弘前医科大学は本県における最初の大学として記念すべきものであったが、昭和二十四年五月の弘前大学の発足によって、医専、医大はともにその包括校となった。青森医専は昭和二十六年に医学部の開設に伴い閉校し、弘前医大は昭和二十九年三月に第三回生が卒業したのを最後に、昭和三十一年一月制定認可された弘前医科大学学位規程が存続するのみとなった。そして昭和三十五年三月、旧学位制度の廃止とともに、国立学校設置法の一部を改正する法律(法律第一六号)の公布により、弘前医科大学は廃止された。