弘前相互銀行と青和銀行の合併

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 弘前相互銀行青南信用組合を吸収合併すると、今度は青森市に本店を持つ普通銀行の青和銀行との合併を模索する。青和銀行は青森貯蓄銀行(大正十年十二月設立)が昭和二十三年(一九四八)十二月、普通銀行に転換して発足した銀行で、その後、三十三年九月に青森商業銀行合併し、県下における普通銀行は青森銀行青和銀行の二行体制となっていた。弘前相互銀行青和銀行合併に向けた話し合いは、弘前相互銀行の青森市への本店移転計画がきっかけと言われ、四十七年末ごろから具体的な折衝に入った。翌四十八年八月には、河野照東北財務局長が来県し、青和銀行大坂嘉市頭取と弘前相互銀行唐牛敏世社長に会い、基本的な条件について一致を見たのである(資料近・現代2No.四九五)。
弘前相互銀行青和銀行合併が具体化してきた背景には、四十八年のオイルショックにより我が国の高度経済成長が終焉を迎えてもなお青森県経済は拡大を続け、また、むつ小川原開発への期待も重なり、北海道銀行八戸支店開設をはじめ、岩手銀行青森支店、秋田銀行青森支店が次々と開設され、その上、仙台市の七十七銀行の青森進出が取りざたされるほど県外銀行の本県進出が活発となり、競争が激化する状況下で、県内金融機関も業務の効率化と新規需要の拡大が要求される情勢に対処する必要があったからであった(同前No.四九六・四九七)。
 両行の合併は、前述した金融機関の合併および転換に関する法律のガイドラインに沿って進められたが、実現には三年を要した。その事情が『東奥日報』昭和五十一年九月二十一日付「みちのく銀行誕生 1」に記されている。
 実質的に両行の合併話が表面化したのは四十八年八月からである。最大の問題は相互銀行の普通銀行への転換だった。過去には日本相互銀行が太陽銀行となり、その後さらに神戸銀行と合併したケースがある。つまり、相互銀行が独自で普通銀行にクラ替えし、さらに普通銀行と結びついたケースだ。
 だが青和・弘相の場合は、いきなり普通銀行と相互銀行との合併異種合併で相銀が普通銀に転換するのは初めての試みだった。このため全国の相銀界から一斉に注目を浴びることになった。
 相互銀行業界は、普銀転換への動きが根強い。日本相互が太陽銀行に脱皮した時の資金量が約五千億円だった。相互銀行の上位行は資金量増大とともに普銀転換への希望をつのらせているのが現状だ。というのも、全国七十二相互銀行の仕事の内容は地銀と同質化してきている。同じ中小企業専門金融機関の信用金庫、信用組合などの追い上げもある。一方では地銀、都銀の攻勢も受け、板ばさみの状態にある。つまり、相互銀行の特色が薄れてきつつある。
 こうしたことから相互銀行の〝脱相銀〟の動きは根強いのだが、大蔵省は普銀転換には消極的だ。ナダレ現象的に次々と普銀転換が相次ぐと、中小企業専門金融機関の急速な解体につながる。その余波が金融界の混乱にもつながりかねない-との配慮があるためとみられる。にもかかわらず青和・弘相の合併話は相互銀行業界には〝寝た子を起こす〟刺激となった。西日本、幸福、兵庫、名古屋、近畿、福徳、平和など大手相互銀行は単独で普銀転換の意向を明らかにした。一方、業界内部にもナダレ現象が起これは業界のバランスが崩れると、起爆剤になりかねない青和・弘相の合併に異議を唱える空気も出てきた。
 弘前相互銀行唐牛敏世社長は「法律(合併促進法)に基づいてやるのだから簡単に出来るものと思っていた。ところが意外にも同業者の協会の反対にあった」と〝誤算〟を語る。大蔵省も、業界の抵抗と影響力を考えて合併に〝待った〟をかけた。この〝待った〟は実に三年間に及んだのである。

 大蔵省は、相互銀行業界に対する根回しと県内世論の支持の高まりを待ち、昭和五十年十二月、相互銀行協会を通じて相互銀行各行の意見を打診し、おおむね了解を得たことで、両行合併を内認可するのである。