昭和五十年十一月二十六日付の『東奥日報』は次のように記している。
空前の長期ストに突入
公企体労組スト権奪還掲げて
スト権奪還を掲げる公共企業体等労働組合協議会(公労協、八十六万人)は、二十六日からの全面長期ストに先立ち、二十五日午後から国労、動労の指名ストに突入、約百九十本の長距離列車が運休した。これに引き続き公労協の国労、動労、全逓など九組合は二十六日午前零時から総掛かりの統一ストに突入した。
本県でも二十五日夕方からの上り長距離列車が全面運休するなど早くも影響が出ている。二十六日からは国労、動労が長時間の本格ストに入るほか〝支援組〟の青森・八戸両市営バスの時限ストも加わるので、影響の輪は大きく広がるものと見られている。
公企体労組スト権奪還掲げて
スト権奪還を掲げる公共企業体等労働組合協議会(公労協、八十六万人)は、二十六日からの全面長期ストに先立ち、二十五日午後から国労、動労の指名ストに突入、約百九十本の長距離列車が運休した。これに引き続き公労協の国労、動労、全逓など九組合は二十六日午前零時から総掛かりの統一ストに突入した。
本県でも二十五日夕方からの上り長距離列車が全面運休するなど早くも影響が出ている。二十六日からは国労、動労が長時間の本格ストに入るほか〝支援組〟の青森・八戸両市営バスの時限ストも加わるので、影響の輪は大きく広がるものと見られている。
こうした労働運動の高まりの中で、合理化の圧力は一層強まり、ストライキに対する一部市民の反発も出てきた。昭和五十一年五月の国鉄ストライキに対する商工会議所などの反対デモはその例であった。