わが国の農業・農村は昭和三十年代以後の高度経済成長で大きな変貌を遂げるが、昭和三十五年(一九六〇)の「農家の状況」が示す数値(農家戸数・農家人口・専兼別農家数など)からは農地改革の成果を受けて戦後農村が最も活気のあった様子がわかる。農業・農村に関するあらゆる指標がピークに達したときであるが、この時期を境にわが国の農業・農村の過疎化が進行する(資料近・現代2No.四二三)。 昭和三十年代からの高度経済成長に対応して出された農業関係の法律が同三十六年(一九六一)に公布された農業基本法である。同法は第二次大戦前、「米と繭」と零細経営に代表された日本農業の生産構造を「選択的拡大」「近代化」の名の下に転換を図ることを目的として制定され、具体的には畜産・果樹・野菜の振興と「機械化」を推し進め、規模拡大による「生産性の向上」と「自立経営農家の育成」を目指そうとするものであった。
しかし、この時期から本格的に農産物の自由化が始まり、輸入制限品目が次々と外国、特にアメリカの圧力により解禁されていった。また、昭和三十五年(一九六〇)から四十八年(一九七三)までは、日本の高度経済成長期である。この間日本は重化学工業の生産力を著しく高め、盛んな設備投資を背景に内需を拡大し、大量生産、大量消費の世の中となった。同時に、都市過密化、物価上昇、公害問題など高度経済成長のひずみも発生した。
高度経済成長は、日本の産業構造、特に農業構造を大きく変貌させた。すなわち、農村から都市への労働力の移動が急激に進み、農業人口、農家戸数、専業農家は減少し、兼業農家が激増した。特に青森県では、出稼ぎによる兼業が農村部において多数見られた。出稼ぎは、戦前から北海道や都市部に農・漁業の季節労働者や土建労働者として就業するケースが多かった。そして、高度経済成長期以後はもっぱら大都市工業地帯での冬場出稼ぎ労働として主要な位置を占めるようになった。出稼ぎ者は、全国で東北地方が一番多く、中でも、その半分が青森県となっており、最大時では全国の出稼ぎ労働者の五分の一を占めた。特に、弘前市の出稼ぎ者は多く、昭和四十年代から県全体のほぼ一〇%を占め、ピーク時の昭和四十九年(一九七四)には弘前市からの出稼ぎは八二七六人に及んだ。その多くは農家からの出稼ぎであった(高田浩稔『青森県出稼労働史』、一九九九年)。