終戦後の学校スポーツで華々しい活躍を見せた弘前高校運動部は、三十年代後期になると、高校総体での成績がすっかり落ち込むことになったが、この時期にひとり気を吐いたのがスキー部であった。三十五年成田忠、三十八・三十九年には松岡昭義が全国大会の十五キロで優勝。後に松岡はグルノーブル・札幌の両オリンピックで日本距離陣のエースとして活躍した。
四十五年ごろになると、硬式野球部が第二の黄金時代を迎えた。第一次の黄金期は、二十七年に県下を初制覇したことに始まる三十三年までの期間をいうが、この間、しかし、四度のチャンスがありながら甲子園の切符をもぎ取ることはできなかった。そして、四十六年春、ついに宿願の甲子園への道が開け、春季高校選抜野球大会への出場権を獲得した。戦績は、第一回戦で善戦虚しく三対二で沖縄普天間高校に惜敗したが、高校生らしい戦いぶりは観客から好感をもって迎えられた。
文化部も、また、市内各校が華々しい活躍をするのを尻目に、これといった成績は残せないでいた。しかし、四十八年に至り嬉しいニュースが飛び込んできた。演劇部が『コモンセンス』を引っさげて全国高校演劇コンクールで最優秀賞を獲得したのであった。これは、弘高の歴史始まって以来の快挙と賞賛された。