東奧義塾の目標とする指針は、「キリスト教精神による人格の形成、そしてスポーツの奨励による自主的な人間の養成である」と述べている。ここに、スポーツに限らず、再興当初の全校剣道教育に見るまでもなく、すでに繁栄の萌芽を見ることができる。文化的にも、新制第一回卒業生である作家今官一が昭和三十一年に第三一回直木賞を受賞するという快挙が報じられた。また、私学助成運動も精力的に続けられ、公私格差是正のために取り組んできた東奥義塾の側面も高く評価されるべきであろう。
東奥義塾は、大正十一年に再興されたとき、制服に背広型を採用した。当時としては実にモダンな服装であったが、戦時中の諸物価統制の余波を受けて背広は廃止され、それ以来普通の詰襟学生服を制服としてきた。終戦後二十数年を経て物資も豊富となったことから、再びかつての背広服を制服にすべしとの論議が起こり、制服制定委員会を設けて各方面の意見を聴いた結果、四十二年度新入生から制服は背広型にすることが決定された。背広服を制服としたのは、「身だしなみのよい服装は人間を紳士にする」という発想から出たものだと言われる。
昭和五十七年(一九八二)、東奥義塾高校は開学百十周年を迎えた。これを記念して建てられた生徒会館の献堂式などを行い、校訓として掲げられた「敬神愛人」の精神のもと、さらなる躍進を誓った。と同時に、稽古館以来の下白銀町から郊外に移転するという画期的な構想が明らかにされた。移転は、下白銀町の敷地、校舎では急増する生徒に対応するにはあまりに手狭で、かつ、教育環境の面でも適さなくなったとの判断によるもので、候補地とされたのは市内石川長者森、敷地面積は約九・五ヘクタールで、小沢にあったグラウンドともどもの移転であった。
六十年から敷地の造成に着手、翌年三月から新校舎の建設が始められ、十二月中旬には全校生徒挙げての引越し作業を終え、六十二年一月の冬休み明けから授業が開始された。新天地を開拓した新校舎は、津軽平野をみはるかす小高い丘に建ち、塾生らはこれを「新生義塾」と呼んだ。西に秀峰岩木山を眺望する緑と自然に恵まれた教育環境は、幾多の苦難をくぐり抜けてきた新生東奥義塾のキャンパスに、今後の明るい栄光と躍進を象徴するかのようである。