俳句会のリーダー木村横斜

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旧派俳句の伝統が根強く残っていた本県の俳壇に、新風を吹き込んだのは佐藤紅緑である。そして、陸羯南の「日本」に入社していた紅緑のもとに出入りして俳句に興味を示したのが木村横斜(きむらおうしゃ)である。
 木村横斜は明治三年(一八七〇)三月二十日、現弘前市上白銀町に生まれた。二十九年、東奥義塾を経て、早稲田専門学校卒業後、東京毎日新聞社、世界日本社へ入社するが、まもなく帰郷する。学生時代から俳句に親しんでいた横斜は、その年の十二月に自家句集「はね炭」(資料近・現代1No.七三二)を刊行した。三十一年(一八九八)、桂閑村(かつらかんそん)らと新派俳句吟社「無名会」を結成する。翌年五月、紅緑らと太平山長勝寺で「太平会」を結成し、俳壇をリードした。したがって、本県の俳壇は新聞「日本」に拠(よ)って日本俳句を唱導した佐藤紅緑木村横斜が先駆者であったといえる。
 三十四年、東奥日報社へ入社し、句作に耽(ふけ)った。三十五年、「東奥日報」に「県下の俳壇概況」を発表、さらに「太平会」の回覧雑誌「酒ぶくろ」を発行した。四十四年には「新傾向の俳句」を同紙に発表している。
 大正十二年、胸膜炎(結核性)を病み、入退院を繰り返す。「なが患ひの胸の底迄さみだるる」の句を残す。十五年(一九二六)一月六日、死去。享年五十七歳。弘前市宝積院(ほうしゃくいん)の墓碑に「雲みるみる夕立たんとして晴れにけり」とある。

写真246 木村横斜