善蔵と洋次郎

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多くの評者がつとに指摘しているように、「金魚」(昭和八年)は石坂文学の成立にかかわるきわめて重要な作品であると考える。なぜなら、本作が葛西善蔵に対して〈訣(けつ)別〉を宣言した作品であること、そして、代表作『若い人』の原型と見なすことができるからである。ここでは、その石坂洋次郎と善蔵との関係について、故郷・弘前市を中心として少しく触れてみる。なぜなら、弘前市という舞台が、いかに日本文学に影響を与えたか、その典型的な例を看取できるからである。
 「金魚」の登場人物の野村氏と主人公の坂口が、善蔵と洋次郎自身をモデルにしていることは、洋次郎の随筆を幾つか読んだだけで直ちに納得することができる。しかし、この作品は、むろん私小説の類ではない。巧みにフィクション化されていることもまた理解されよう。例えば作中に次の一節がある。
野村氏が帰省する二、三ヵ月前、私は、学校卒業以来の浪人生活からようやく浮びあかって現在のミッション女学校に奉職し、それまで親子三人で籠城していた実家の物置小屋を引き払って町端れの閑静な借家に仮寓した。間数も多く、庭も見晴しもひろびろとした家だった。

 しかし、事実は少し異なる。洋次郎が青森県立弘前高等女学校(現弘前中央高等学校)の教壇に立ったのは大正十四年(一九二五)七月十七日である。
 この七月十七日という日付に注目する必要がある。洋次郎が慶応大学を卒業したのが同年三月。東京で新聞社か雑誌社に勤めを得ながら、小説家を目指していたが、世間が不景気で帰郷を余儀なくされる。父親の知人の世話で女学校への勤務が決定する。月給九〇円。住宅は元市長も住んでいた静かな屋敷町にあり、生活環境は抜群であった。希望した職業ではなかったにせよ、妻うらの母校でもある女学校の勤務に期するものが少なからずあったはずである。
 ところが、新任式の前に、すなわち七月十三日に善蔵が突然訪問したのである。作中にもあるように、それはまさに〈襲来〉といってよい。
 青森県郷土作家研究会・代表理事小山内時雄(おさないときお)(大正四- 一九一五- 弘前市)が編んだ年譜(『葛西善蔵全集 別巻』昭和五十年 津軽書房刊)によれば、「十三日、帰郷、石坂洋次郎平川力の世話で弘前市元寺町斎吉旅館に滞在」とある。

写真248 斎吉旅館

つまり、洋次郎は正式に勤務する前から善蔵の〈襲来〉を受けていたことになる。以後どんな仕打ちを受けたかは「遅刻、早退、欠勤-私の勤務成績は満身創痍といっていい。まったく、この二ヵ月の間というもの、私は私の乏しい精力のすべてを、作家・野村氏を理解しようと努める骨折りと、それを執拗に阻止する妻との争いに消費し尽くして、半病人のような気息奄々の日を過してきた。さきを思うと暗然とする」という主人公の慨嘆にすべて集約されている。