昭和の津軽の文学を語るとき、どうしても触れておきたい文学者や編集者がいる。その一人が平田小六(ひらたころく)(明治三六-昭和五一 一九〇三-一九七六)である。小六は大館市に生まれたが、弘前市で青春時代の大半を過ごしているから、弘前市出身とする研究者もいる。昭和九年に刊行した長編小説『囚はれた大地』(資料近・現代2No.六五三)で、プロレタリア文学の新星として注目された。
また、菊岡久利(きくおかくり)(明治四二-昭和四五 一九〇九-一九七〇 弘前市)は少年時代から社会運動に熱心だったが、昭和十一年に発表した詩集『貧時交』で詩壇に登場し、アナーキズム詩人として話題を呼んだ。菊岡は絵画を得意としていたため、棟方志功や今東光(同前No.六六六)とも親しかった。
さらに、久藤達郎(くどうたつろう)(大正三-平成九 一九一四-一九九七 青森市)は戦時中の昭和十八年に発表した「たらちね海」で国民演劇脚本に応募し、情報局賞(同前No.六七二)を受賞した。久藤は弘前市の演劇界をリードしただけではなく、民話劇「シガコの嫁コ」などで圧倒的な支持を得た。平成七年(一九九五)に発足した弘前ペンクラブの初代会長を務めるなど、文学活動においても後輩を育てた。
もう一人触れておきたいのは加藤謙一(明治二九-昭和五〇 一八九六-一九七五 弘前市)である。加藤は若くして講談社の社長に認められ、「少年倶楽部」の編集長に抜擢(てき)された。郷土の先達である佐藤紅緑を説得して少年小説を依頼、空前のヒット作『あゝ玉杯に花うけて』『少年讃歌』などを掲載し、全国の少年を熱狂させ、その雑誌の発行部数を驚異的に伸ばしたことはすでに述べた。加藤は紅緑の旧制弘前中学の後輩ではあるが、津軽の先達を日本文学史に残したという功績は高く評価されよう。まさに〈北の文学連峰〉のその絆の強さと、人と人との出会いの不思議な縁を痛感せざるを得ない。