続き物で今官一の「海鷗の章」に現代の新しい浪曼主義の相当高い匂ひと美しさを見ました。
今官一文学の核心を衝(つ)いた評言である。さらに、十三年発表の「旅雁の章」が芥川賞の候補となる。
しかし、時代は暗黒の世界に向かっていた。昭和十九年四月、召集令状が届く。三十五歳の〈老兵〉が応召しなければならないほど日本は追い詰められていた。そして戦艦・長門に配乗され、レイテ沖海戦での激戦に参戦した。官一は九死に一生を得た。一二〇〇人の水兵のうち生き残ったのは、たったの二四人だったという。
しかし、敗戦後、帰郷したとき悲しい報せが待っていた。限りなく愛していた母の死である。幼少のころ、いつも母にくっついて歩いていた官一にとって、母の死は衝撃であった。後にこの戦争体験が『幻花行』『不沈〈戦艦長門〉』に結実するが、それはまた〈母に捧げる鎮魂歌〉でもあった。
さらに、悲劇が官一を襲う。昭和二十一年に〈人生の師〉福士幸次郎を、二十二年には〈文学の師〉横光利一を、そして二十三年には〈文学の友〉太宰治を失うのである。このとき、茫然自失の今官一を励ましたのは、文壇の大御所の宇野浩二であった。
昭和三十年(一九五五)、「銀簪(ぎんざん)」が直木賞候補となる。選考委員の木々高太郎が第一位に推し、永井龍男も「殆(ほとん)ど完璧に近い出来栄え」と激賞したが、惜しいところで涙を呑(の)んだ。
翌年の上半期の直木賞候補に『壁の花』が挙がった。選考委員の意見は分かれた。前作の「銀簪」に及ばない、ハイブロウで、むしろ芥川賞に向いている、などなど。しかし、委員の一人小島政二郎は所収の「暗い砦」を激賞し、「この中には、人間の心理が生きている」と評した。
後に高見順は、今官一の直木賞受賞(資料近・現代2No.六六五)を「芥川賞の間違いでないの」と言っている。今官一の文学は、むしろ芥川賞にふさわしいと言えるかもしれない(同前No.六七四)。
このころ、官一は父・官吾と東京三鷹市に住んでいた。読書家で、マイホーム型の父親はクリスマスには、子どもたちにたくさんのプレゼントを贈るという心優しい人だった。官一に祖父の影響も見逃せないが、両親の愛情をたっぷり受けたゆえに、純粋でそしてまことにシャイな人柄を身につけたのであろう。
受賞の報せを聞いた父は、壁に向かって泣いていた、という。
写真258 直木賞受賞作『壁の花』