工芸運動と版画

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大正時代末に、柳宗悦濱田庄司(明治二七-昭和五三 一八九四-一九七八)、河井寛次郎等により民芸を基準とした新たな工芸運動民芸運動)が興るが、大川亮(おおかわりょう)(明治一四-昭和三三 一八八一-一九五八 平賀町)はそれに共鳴し、農閑工芸研究所を設立し、コギン刺し蔓細工を研究、指導した。亮は昭和六年(一九三一)には弘前の木村産業研究所の理事となり、高橋一智(たかはしかずとも)(明治三七-昭和五八 一九〇四-一九八三)や工藤繁造(くどうしげぞう)(明治三三-昭和一一 一九〇〇-一九三六 つがる市)らと協力して、郷土の民芸工芸振興のために尽力した。

写真275 高橋一智『染付草花文壺』

 下澤木鉢郎(しもさわきはちろう)(明治三四-昭和六一 一九〇一-一九八六)は大正五年に上京、創作版画運動に関係していた石井柏亭(いしいはくてい)(明治一五-昭和三三 一八八二-一九五八 東京都)や平塚運一(ひらつかうんいち)(明治二八-平成九 一八九五-一九九七 島根県)に出会い、版画家への道を歩き始める。第六回日本創作版画協会に版画『焼け跡風景』を出品、本県では初の版画での中央の美術団体に入選を果たした。昭和二年には同版画協会の会員になる。国画会でも版画で奨学賞、褒賞を受け、昭和十八年会員になっている。
 木鉢郎は昭和初期、本県で中学生(旧制)を中心にして興った創作版画の機関誌の発行に、純三や棟方志功(むなかたしこう)(明治三六-昭和五〇 一九〇三-一九七五 青森市)らとともに賛助出品者として参加、指導的役割を果たしているほか、自分でも『版曹』という版画誌を刊行している。また、戦後は志功らと日本板画院を創立している。このように、木鉢郎は志功や関野凖一郎らに先駆けて木版画家として活躍し、本県を代表する版画家の一人となった。

写真276 下澤木鉢郎『下北の女』