錦風流尺八(きんぷうりゅうしゃくはち)

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日本ばかりでなく、外国でも、尺八奏者が好んで取り上げるのが錦風流(根笹派大音笹流(ねざさはおおねざさりゅう))の曲である。それは禅味を帯びた幽玄な曲調であるためであろう。アメリカの著名な作曲家ヘンリー・カウエル(一八九七-一九六五)が神如道(じんにょどう)の弟子であった玉田如萍(たまだにょひょう)に学び、一九三〇年代に尺八の曲を作曲しており、日本音楽の禅的な世界をアメリカの作曲家たちにイメージさせるのに貢献した。神久雄・如道(明治二四-昭和四一 一八九一-一九六六)は士族の子として茂森新町に生まれた。錦風流尺八を幼少から親しみ、国学院に学びつつ、尺八の研究・修練に没頭した。根笹派・錦風流の全曲を含む尺八の古典本曲、一五四曲を集大成し、邦楽史上で重要な音楽家であり、如道が錦風流を全国的に知らしめた功績は大であった。長男の神如正(じんにょせい)が東京で「如道会」を主宰し伝承を守っている。
 伝承曲「津軽の十調子」と呼ばれるように、一〇曲が伝承曲である。一 調(しらべ)、二 下り葉(さがりは)、三 松風の調べ・松風、四 三谷清欖(さんやせいらん)、五 獅子、六 流鈴慕(ながしれいほ)、七 通里(とうり)、八 門附(かどつけ)、九 鉢返し(はちかえし)、一〇 虚空(こくう)。これらを正系とし、ほかに瀧落(たきおとし)、玲慕(れいぼ)など数曲が傍系としてある。調子には五種類あり、本調子は二尺管を用いる。奏法の特色としてコミとチギリ、オトシがある。コミは一種の断続呼吸奏法であり、チギリ、コミは微妙な音高変化を旋律線に加える技法である。
『弘藩明治一統誌人名篇』に「尺八元御手廻 伴勇蔵」と記された伴勇蔵の歿後に、追善の額が誓願寺に掲げられた。そこには門人や同好の人々五〇人の名を読むことができ、当時の隆盛を知る。弘前藩の九代藩主津軽寧親(つがるやすちか)は、諸芸に優れた知識人であり尺八も堪能(たんのう)であった。藩に尺八の名手がいないのを残念に思い、小納戸役の吉崎八彌(よしざきはちや)・好道(こうどう)(寛政八-明治八 一七九六-一八七五)に命じて尺八を習わせた。吉崎は、文化十二年(一八一五)、下総(しもうさ)の一月寺(いちがつじ)に入門し、文政元年(一八一八)に帰藩して津軽に伝えた。その後、伴勇蔵建之(たけゆき)(寛政一〇-明治八 一七九八-一八七五)、乳井永助建朝・月影(にゅういえいすけたけとも・げつえい)(文政五-明治二八 一八二二-一八九五)、野宮玉洗(のもとぎょくせん)、津島健四郎・孤松(つしまけんしろう・こしょう)、折登清助・如月(おりとせいすけ・にょげつ)(慶応元-昭和二四 一八六五-一九四九)、神如道などによって継承された(図17参照)。普化(ふけ)尺八に特有な瞑想的雰囲気の楽曲が中心になっているのは当然だが、津軽では士族以外には楽器をさわらせず、奏させなかったと言われ、武士に特有な剛直さが特徴になっている。

図17 錦風流尺八の系譜

 青森県無形文化財 技芸として指定されたのは昭和五十六年六月であり、後藤清蔵・貫風(ごとうせいぞう・かんぷう)、松岡幸一郎・錦堂(まつおかこういちろう・きんどう)、松岡俊二郎・竹風(まつおかしゅんじろう・ちくふう)、松山定之助(まつやまていのすけ)であった。このうち、松山定之助は平成元年に、後藤清蔵は平成七年に逝去した。後藤氏の門下である須藤任子・青風(すとうたかこ・せいふう)が平成九年七月に技芸保持者として追加認定されている。