明治十年(一八七七)、家督を相続した佐吉は北海道の開発ブームに目をつけ、明治十二年(一八七九)六月函館に向け旅立った。一年の期限付きで開拓使の工事を下請けすることになったのである。
函館に着いた佐吉は、初めて見る町並みにすっかり度胆を抜かれる。そこは、まるで別世界のように、ハイカラな洋風建築が建ち並ぶ異国情緒あふれる町だったのである。わけても佐吉の心を騒がせたのは、外国人居留地の数々の洋風建築であった。領事館や商館はもとより、文久元年(一八六一)に建てられたハリストス正教会堂には、同じ木造でありながらその姿に驚き感嘆するばかりであったという。こうして佐吉は、開拓使の工事に携わりながら、暇をみては他の現場を回り、新しい技術を貪欲に吸収し、洋風建築の基礎を身につけて帰弘した。
写真292 堀江佐吉
弘前に帰った佐吉は、類焼した東奥義塾の再建を依頼され、それまでの経験から本格的な洋風建築の設計を試み、みごとに明治二十年(一八八七)九月に新築落成した。この校舎は、これまでの軍の庁舎などのように施工制限がなく、義塾側の理解もあり、佐吉がこれまで培った洋風建築に対する思いを傾けた作品に仕上がった。
この後、佐吉はもう一度開拓使の建築物に触れる機会を持つ。明治二十二年(一八八九)、大倉組(現大成建設)の下請として屯田兵舎の建築のため再度渡道したのである。屯田兵舎建設が終わったあとも、札幌で引き続き大倉組の下請工事をしていた佐吉だが、苦心して建てた東奥義塾が全焼したのを聞き、その再建のため翌年春に帰弘し、前作に勝る力作を完成させる。明治二十三年(一八九〇)八月に竣工した新校舎は洋風木造の二階建てで、正面玄関にはポーチがあり、その上部には塔屋を置くという本格的な洋風建築で、外壁は下見板(したみいた)張りにオイルペンキを塗り、軒、胴とも蛇腹で飾るという弘前ではかつて見たこともないものとして仕上げられた。前年の渡道で札幌に建ち並ぶ洋風建築を研究した成果であったが、同時にこの作品により洋風建築家としての地位を揺るぎないものにしたのである。
写真293 東奥義塾校舎(明治23年)
この後、旧弘前市役所〔明治二十五年〔一八九二〕)、第八師団司令部(明治三十~三十一年〔一八九七~九八〕)、予備病院(後の衛戍(えいじゅ)病院、明治三十七年〔一九〇四〕)、弘前偕行社(かいこうしゃ)(明治四十年〔一九〇七〕)等を手がけた。また、明治三十五年(一九〇二)から三年をかけて第五十九銀行(現青森銀行記念館)を建築し、その意匠及び構造は彼の生涯の集大成と言われるにふさわしい傑作である。この勢いは衰えを知らず、旧弘前市立図書館(明治三十八~三十九年〔一九〇五~〇六〕)等と続くのである。
このうち、旧弘前市立図書館は、日露戦争にかかわる第八師団諸施設工事の大量請負で多くの利益を得た斎藤主(さいとうつかさ)や堀江佐吉ら五人が、その一部を市民に提供しようと考え、「私立弘前図書館」の窮乏を聞くに及び、図書館を建設して弘前市に還元すると決めたことにより造られたものである。
当初は、木造二階建て、建坪二〇坪程度の予定で図面も引かれていたが、設計施工を任された佐吉は、第五十九銀行本店竣工直後でもあり、また、どうせ建てるなら後世の模範となるようなものにしたいと考えた。大幅に設計変更をし、規模を約四倍にしたが、それによって費用も三倍になった。その工費の差額三五〇〇円は、佐吉と斎藤の二人で負担したと伝えられている。
一年余を費やして、三十九年三月に竣工した市立図書館は、正面両翼の八稜形塔屋部分の三階を加えて、主棟の延面積約二五四平方メートル、背面の二階附属室四二平方メートル、計三〇〇平方メートル弱となり、当時の市民の目を奪うものとなった。双塔形式は、この建築をよりモニュメンタルなものにしようとする佐吉の意欲の現れであり、図書館建築の必然の形態とは考えられないが、ルネサンス様式を踏まえつつも、佐吉晩年の洋風技法の確かさを見せている作品である。
図23 旧弘前市立図書館
明治四十年(一九〇七)八月、施工中だった偕行社の完成をまたず佐吉は亡くなった。文字どおり弘前の近代建築の担い手であった彼は、良き弟や息子たち、また、良き弟子たちを育て、その遺志は長く引き継がれることになるのである。