写真296 時敏小学校(明治21年)
明治二十一年(一八八八)に至り、時敏小学校が新築された際の写真に、ようやく洋式を模したらしい姿が記録されている。対称的な総二階建ての中央に塔屋を上げて三層とし、両翼には上下階とも教室を張り出し、ベランダの手すりやポーチの幕板などにも洋風の意図は明らかであるが、まだ屋根は入母屋造りで、窓は引き違い形式であった。
その後、明治二十二年(一八八九)には和徳小学校の改築、弘前高等小学校の新築、明治二十四年(一八九一)には大成小学校の焼失再建と続くが、そのうち弘前高等小学校ではポーチの隅角に擬石積をあしらい、軒に刳形(くりかた)らしい飾りが見えるが、ほかはさきの時敏小学校の手法からあまり前進したものではなく、ペンキ塗装さえ省いたものもあったようである。
時代が下って、明治二十七年(一八九四)の青森県尋常中学校や明治三十四年(一九〇一)の県立第一高等女学校の場合には、洋風建築物としては装飾を極端なまでに抑えている。そして、小屋組にトラス、窓に上げ下げ窓を採用して機能的な合理性に重点が置かれるようになっており、むしろ質素で堅牢をモットーとしているようにさえ見受けられる。
写真297 旧青森県尋常中学校本校本館
一方、官公庁の場合も、明治中期ごろまでは特に積極的な洋風化は展開されず、わずかに明治二十五年改築の弘前市役所、明治二十六年(一八九三)の弘前警察署、明治三十二年(一八九九)の弘前駅舎、明治三十四年(一九〇一)の市立病院、明治四十二年(一九〇九)の弘前郵便局などが挙げられるにすぎない。これらのうちでは、弘前市役所が正面に隅切りされたポーチを有し、屋根は入母屋(いりもや)で外壁は下見板にオイルペンキ塗、窓は上げ下げ窓とし、軒に持ち送りをつけて飾り天井とし、蛇腹を配すというぐあいで、様式的にはまだ擬洋風の域を脱していないのが特徴的である。