明治時代の柔術

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弘前柔道協会が創立九十周年を記念して刊行した『弘前柔道史』(一九九一年)に次の一節がある。
明治維新後、明治四年(一八七一年)七月、廃藩置県により弘前に置かれた県庁は、青森に移ったものの、城下町としての弘前は藩政時代の気風が残り、柔術、剣術共に盛んであった。/津軽藩の柔術である「本覚克己流」は、添田家九代定吉が、「和(やわら)」といって、藩学校「稽古館」の後を継いだ東奧義塾(明治五年(一八七二年)創立)で生徒に教えていた。/その後定吉は、明治二十七年(一八九四年)に、「和道場東嶽館」を設立して、若者に柔術を指導していた。添田定吉の死後は、後を継いだ宮本源五郎が学校と道場での指導を続けた。/一方、廃藩と同時に、士族の若者達は、エネルギー発散の場として町道場を作り、柔剣術修業に励むと共に、文化面の教養を高める場としていた。

 そして、明治十六年(一八八三)九月、長坂町に「北辰堂」、十七年二月、鷹匠町に「明治館」、二十年八月、北瓦ヶ町に「陽明館」、二十七年十一月、本町に「城南倶楽部」(後に「城陽会」)がそれぞれ設立されたことを報告している。