概要
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渋江松石の長子。名を公隆(きみたか)、字を孟吉、通称を安宅という。文章の才能に恵まれ、幼い頃から勉学に専念した。 天草や島原を数年間漫遊した後、37歳の時に隈府で私塾「銀月亭」を開く。銀月亭は1815(文化12)年から1852(嘉永5)年までの37年間開かれた。菊池以外にも益城や玉名、宇土などから多くの門下生に経書や書道を教え、この評判から藩に菊池郡文芸指南役を任じられる。藩の竹迫会所に通勤して武士階級の子弟の学問指導を行うこともあった。木下韡村(きのしたいそん)と交流が深い。 1852(嘉永5)年1月17日、75歳で亡くなる。7歳で早世した息子周蔵と合葬され、輪足山の渋江家墓地に眠っている。碑文は木下韡村。
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