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目録ID b00001
氏名 渋江紫陽
氏名(カナ) シブエシヨウ
氏名(ローマ字)
別名 公豊/士錫/貞之丞/九菊亭有芳/八方山人
タイトル関連(カナ)
タイトル関連(ローマ字)
欧文タイトル
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著者
著者(カナ)
作成者(ローマ字)
宛先
宛先(カナ)
宛先(ローマ字)
出版者
製作者(カナ)
製作者(ローマ字)
生没年 1719年(享保4年)~1792年(寛政4年)7月22日
製作年終
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件名(カナ)
件名(ローマ字)
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地域(カナ)
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内容年
内容年終
内容細目
内容細目(カナ)
内容細目(ローマ字)
概要 【城北の隠君子】 渋江紫陽は1719(享保4)年、隈府で生まれ、名を公豊(きみとよ)と言った。字は士錫、通称貞之丞、号紫陽。14歳の時に水足博泉(みずたりはくせん)に師事。博泉の死後は山鹿の加々美鶴灘(かがみかくだん)に学ぶ。2人の師の教えには、共通して「古学(儒学の一派)」と「菊池一族の顕彰(業績を讃えて世間に広めること)」という柱があった。紫陽自身にもそれらは受けつがれ、紫陽以降の菊池の文教の基礎となった。 紫陽が活躍した江戸中期は、全国各藩において私塾教育が盛んな時代だった。紫陽は1748年(寛延元年)30歳の時に藩校「時習館」よりも6年早く私塾「集玄亭(しゅうげんてい)」を創立し、閉鎖されるまでの45年間に300人以上がここで学んだ。門人には宗伝次(そうでんじ)、町野鳳陽(まちのほうよう)、池辺宗英、隈部桃伯、渋江松石(しょうせき)などがいる。 1779年(安永8年)、紫陽が61歳の時、渋江松石、宗伝次と協力し、正観寺に菊池氏15代武光の墓碑を建設する。 1792年(寛政4年)74歳で亡くなる。 1915年(大正4年)11月10日、功績が認められ従五位が贈られた。
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 菊池市立図書館
原資料の所在地
資料番号
管理記号
カテゴリ区分
資料種別 人物
資料群名
資料分類(中分類)
資料分類(小分類)
文化財情報
manifest.jsonへのURL https://adeac.jp/viewitem/kikuchi-city/viewer/iiif/dc-b00001/manifest.json
情報源(関連ページURL) https://www.city.kikuchi.lg.jp/article/view/1314/2817.html
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情報源(自治体史) 菊池市史(下)
情報源(出版物・関連資料) 『肥後人名辞書』
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