長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十六 (200頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
600頁~
700頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
明正
寛永一〇年
1633
伊那郡虎岩村、本年年貢の算用覚を記す、
201
明正
寛永一〇年
1633
伊那郡虎岩村、同村百姓の本年の諸勘定を記す、
202
明正
寛永一〇年
1633
高井郡泉竜寺住持秀浦、蓓蔓、同寺を退き佐久郡貞祥に隠居し、了覚、日翁、泉竜寺に継住す、
203
明正
寛永一一年正月一日
1634
林道春、羅山、脇坂安元の新年試筆の和歌の脚韻を和して、詩を製し、之を安元に贈る、
204
明正
寛永一一年正月九日
1634
幕府、本年徳川家光上洛に供奉の衆の木曽路を通るに依り、徳川義直にその道橋の修覆を命ず、尋いで、義直、山村良豊に、その実施法を指示す、 徳川義直の家臣横田三郎兵衛より山村甚兵衛宛の書状
204
明正
寛永一一年正月一四日
1634
徳川家光、江戸増上寺に、亡父秀忠の三回忌法会を修す、真田信之等信濃の諸大名、寺中の警衛を勤む、
206
明正
寛永一一年正月二六日
1634
真田信之、小日向四郎兵衛に知行を加給す、
207
明正
寛永一一年正月二九日
1634
徳川家光、諏訪頼水の子同忠恒等の、本年の家光上洛に供奉を望むに依り、之を許す、
208
明正
寛永一一年二月三日
1634
真田信之、高井郡温泉寺の請に依り、同郡沓野村原新田の開発を許す、
208
明正
寛永一一年二月五日
1634
松平忠憲、憲良、佐久郡矢島新田に、公儀の役の外諸役を免ず、
209
明正
寛永一一年二月九日
1634
脇坂安元の家臣下津屋景信、伊那郡片切の光蓮寺をして、手形なく同寺山林を伐採するを禁ず、
209
明正
寛永一一年二月一〇日
1634
徳川家光、松平直政等諸大名を江戸城中に招き、狩獲の鶴を饗す、
210
明正
寛永一一年二月一二日
1634
高井郡須坂邑主堀直升の家臣東方五郎右衛門、同郡綿内村に定書を渡す、
210
明正
寛永一一年二月二〇日
1634
徳川家光、真田信之等上洛供奉衆の、一旦領国に帰り、国元より上洛するを許す、
211
明正
寛永一一年二月二一日
1634
幕府、徳川家光の上洛供奉につき、飯山城主佐久間安次勝長、等信濃の諸大名をして、越後高田城主松平光長の旗下たらしむ、
212
明正
寛永一一年二月二二日
1634
幕府、井上庸名等の、徳川家光上洛の時の京都宿割を勤むるの労を犒ふ、
212
明正
寛永一一年二月二三日
1634
松平直政、筑摩郡若沢寺に、観音免として寺地を寄進し、また安曇郡仁科神明に、神領を寄進す、
213
明正
寛永一一年二月二七日
1634
幕府代官岩波道能、同人手代相沢七左衛門等に、年貢納払のことを指示す、
214
明正
寛永一一年
1634
遠江掛川城主青山幸成、同城米蔵造営用材を伊那郡千村重長代官所山に需めんとし、その許可を幕府に請ふ、尋いで、幕府、之を許す、
215
明正
寛永一一年
1634
松平直政、山村良豊に筑摩郡桜沢橋用材を求む、尋いで、良豊、之に応ず、
217
明正
寛永一一年
1634
幕府、木曽三留野・野尻両宿に、駄賃増銭を取るを禁ず、
217
明正
寛永一一年
1634
某、安曇郡若沢寺に町石を寄進す、 赤松勘衛門等、若沢寺に町石を寄進す、
218
明正
寛永一一年三月五日
1634
幕府、仙石政俊に、徳川家光上洛の供奉を命ず、
219
明正
寛永一一年三月五日
1634
幕府留守居松平重則・牧野信成、酒井忠吉の同役に加はり、関所女手形加判人となれるを木曽福島関山村良豊に告げ、以後の通行手形の様式を示す、
220
明正
寛永一一年三月一〇日
1634
徳川家光、松平直政等諸大名を招き、茶を饗す、
220
明正
寛永一一年三月一〇日
1634
伊那郡虎岩村の安右衛門等、是日より、本年分の種子米を借用す、
222
明正
寛永一一年三月一二日
1634
是より先、伊那郡邑主近藤重直の知行所同郡上穂村百姓、保科正之領同郡宮田村と同郡大田切山の入会につき争論す、是日、正之、之を裁し、同山を旧の如く入会地たらしむ、
224
明正
寛永一一年三月一三日
1634
真田信之の家臣伊藤正次、中牧勘兵衛に、更級郡滝沢山に於いて旧の如く草を刈るを許す、
225
明正
寛永一一年三月一五日
1634
仙石政俊の弟同政則・同政勝、徳川家光に初めて目見えす、
226
明正
寛永一一年三月一五日
1634
伊那郡虎岩村、脇坂安元の家臣城武右衛門より、種米を借用す、
227
明正
寛永一一年三月一八日
1634
幕府、上方筋より信濃に入らんとする女人の通行手形の加判衆を定め、之を徳川義直の老臣等を告ぐ、
228
明正
寛永一一年三月二二日
1634
保科正之等、徳川家光の能楽見物に侍す、
229
明正
寛永一一年三月二六日
1634
伊那郡代官宮崎景次等、徳川家光に目見えす、
229
明正
寛永一一年三月二八日
1634
千村重長の甥某・山村良豊の弟同良弘、徳川家光に目見えす、
229
明正
寛永一一年三月二八日
1634
松平直政、徳川家光に馬を献ず、
230
明正
寛永一一年三月二八日
1634
木曽妻篭宿、火く、
230
明正
寛永一一年
1634
日延、諏訪郡高国寺を造立す、
231
明正
寛永一一年四月二日
1634
幕府、佐久間勝之等に徳川家光上洛中の江戸留守居を命じ、また、諏訪頼水等に居城に在番すべきを命ず、
232
明正
寛永一一年四月六日
1634
佐久郡井出次久、同郡海瀬組の前年分定納勘定目録を指出す、
233
明正
寛永一一年四月一三日
1634
諏訪頼水、井手宗順の音信に答へ、病人出来の際の医療を依頼す、
235
明正
寛永一一年五月五日
1634
伊那郡代官中西三清、卒す、尋いで、その子同清次、嗣ぐ、
236
明正
寛永一一年五月一七日
1634
是より先、伊那郡靏辺村、同郡葛島村と入会山につき争論す、是日、両村、同郡片桐村の八左衛門等の仲介により和解す、
237
明正
寛永一一年五月二〇日
1634
幕府代官岩波道能の手代島田理兵衛、佐久郡井出次久より、同郡宿岩新田前年分納籾の代金を請取る、
239
明正
寛永一一年五月二一日
1634
伊那郡座光寺村の忠右衛門等、同郡上黒田村の小右衛門等に、上黒田村の山に立入らぜるを誓ふ、
240
明正
寛永一一年五月二三日
1634
保科正之、伊那郡建福寺に制札を掲ぐ、
241
明正
寛永一一年
1634
佐久郡新海明神祠官山宮宮内丞、奉行所に、同社の由緒及び神領のことを書上ぐ、
241
明正
寛永一一年六月一日
1634
徳川義直、山村良豊をして、徳川家光上洛供奉の越後・信濃諸大名のために、木曽路通行の便をはからしむ、
242
明正
寛永一一年六月一二日
1634
真田信之・仙石政俊・脇坂安元等、徳川家光に先立ち江戸を発し、領地を経て上洛せんとす、堀直升も江戸を発す、尋いで、保科正之・諏訪忠恒等も江戸を発す、
243
明正
寛永一一年六月一三日
1634
佐久郡大日向村の新左衛門等、同郡井出次久より、本年分巣鷹献上の褒美として、籾を請取る、 佐久郡北相木村の市左衛門等、井出次久より本年分巣鷹献上の褒美として、籾を請取る、
246
明正
寛永一一年六月二三日
1634
伊那郡虎岩村、是日より、本年の年貢を納入す、
248
明正
寛永一一年六月二六日
1634
是より先、佐久郡平賀村、同郡北沢村と北沢山入会につき争論す、是日、両村、同郡正安寺等の仲介により和解す、
252
明正
寛永一一年
1634
真田信政の子同信就、京都に生る、
254
明正
寛永一一年
1634
徳川義直、木曽伊奈川橋の洪水のため破損するにより、その修理を山村良豊に命ず、良豊、木曽谷人足にては修理し難きにより、先例の如く、千村重長等美濃久々里衆の助役とせられんことを請ふ、
257
明正
寛永一一年七月一〇日
1634
諏訪頼水、同忠恒の老臣千野十郎兵衛等に書を送り、上洛中の忠恒の身辺等のことを問ふ、
258
明正
寛永一一年七月一一日
1634
松平直政の家臣市川久兵衛、安曇郡塩島村の前年分年貢を皆済せるを証す、
262
明正
寛永一一年七月一六日
1634
保科正之、京都に於いて侍従に任ぜらる、
263
明正
寛永一一年七月一八日
1634
徳川家光、参内す、脇坂安元等、之に供奉す、
265
明正
寛永一一年七月二〇日
1634
徳川家光、井上庸名を使者として公卿衆に物を贈る、
270
明正
寛永一一年七月二〇日
1634
真田信吉、小野八蔵に知行を給す、
272
明正
寛永一一年七月二〇日
1634
大濱次郎右衛門等、木曽王滝村より、年貢綿代を請取る、
272
明正
寛永一一年七月二四日
1634
是より先、越後村上城主堀直寄、越後より上方へ赴く女の木曽福島関所通過を、家老手形を以つてせんことを山村良豊に請ふ、是日、良豊、直寄直判の手形を以つてすべきを答ふ、
273
明正
寛永一一年閏七月四日
1634
徳川家光、後水尾上皇の院に参内す、真田信政等、之に供奉す、
274
明正
寛永一一年閏七月一六日
1634
幕府、諸大名に代替りの領知朱印状を与ふ、真田信之・同信吉分は後日江戸に於いて与ふべきを約す、
274
明正
寛永一一年閏七月一九日
1634
松平直政の家臣市川久兵衛、安曇郡舟場村の前年分年貢を皆済せるを証す、
278
明正
寛永一一年閏七月一九日
1634
四郎右衛門、佐久郡下小田切村の小左衛門等より、蔵納大豆を請取る、尋いで、また請取る、
279
明正
寛永一一年八月二日
1634
脇坂安元の家臣松原秀政、伊那郡上飯田村の前年分年貢を皆済せるを証す、
283
明正
寛永一一年八月三日
1634
木曽山村良勝、用斎、卒す、
284
明正
寛永一一年八月四日
1634
徳川家光、仙石政俊に、代替りの領知朱印状を与ふ、
292
明正
寛永一一年八月四日
1634
是より先、高井郡綿内村の元斎等、某村と訴訟す、是日、同郡正満寺等の仲介に依り示談となる、
293
明正
寛永一一年八月二四日
1634
諏訪頼水の家臣三輪知友、筑摩郡和泉村の惣兵衛に、同村の前年分年貢の納払皆済目録を渡す、
294
明正
寛永一一年八月二九日
1634
伊那郡伊豆木邑主小笠原長巨、卒す、
295
明正
寛永一一年九月六日
1634
佐久郡小海村の惣十郎等、同郡井出次久より、熊皮の代金を請取る、
298
明正
寛永一一年九月六日
1634
脇坂安元の家臣脇坂内膳、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、本年分年貢米を請取る、尋いで、また請取る、
298