長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十六 (400頁~)
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明正
寛永一二年
1635
徳川義直、普請奉行を木曽に遣はして伊奈川橋の掛替に着手せしめ、千村重長等美濃久々里衆にその手伝を命ず、
408
明正
寛永一二年三月一九日
1635
脇坂安元の家臣国木田清太夫、伊那郡虎岩村平沢新十郎等より、竹を請取る、 国木田清大夫、平沢新十郎等よりつかみ竹等を請取る、
409
明正
寛永一二年
1635
幕府、徳川義直に命じて、下野日光山東照社造営の桧皮を木曽山より出さしむ、
411
明正
寛永一二年
1635
松平忠憲、憲良、佐久郡望月村をして、新田を開発せしむ、
412
明正
寛永一二年
1635
脇坂安元、江戸に於いて、勅使前内大臣三条西実条と和歌を贈答す、
413
明正
寛永一二年四月二日
1635
伊那郡下瀬村の某、小作覚帳を記す、
417
明正
寛永一二年四月九日
1635
是より先、豊後杵築城主小笠原忠知、家臣百瀬庄兵衛の妻子を諏訪頼水の領内より召寄せんとし、木曽福島関通過を、山村良豊に依頼す、良豊、その手形の不備を忠知に報ず、是日、忠知、頼水の手形を添へて、改めて同所通過を良豊に依頼す、
418
明正
寛永一二年四月一一日
1635
佐久間安長の子同安次、勝長、徳川家光に初めて目見えす、
421
明正
寛永一二年
1635
山村良豊の弟同良弘、江戸に召され、小姓組に属す、
422
明正
寛永一二年五月一三日
1635
幕府、木曽福島宿に、宿場定書を下す、
422
明正
寛永一二年
1635
脇坂安元の老臣等、江戸城総外郭御門用材を木曽賎母山等に需めたき旨を山村良豊に告ぐ、尋いで、良豊、幕府の許可あらば之に応ずべき旨を答報す、 徳川義直、幕府へ進上の材木を木曽王滝に需めんとす、
423
明正
寛永一二年六月二日
1635
是より先、幕府、軍船を建造せしむ、是日、徳川家光、保科正之等諸大名と之に乗船す、
424
明正
寛永一二年六月二〇日
1635
松平直政、筑摩郡下二子村の田地荒廃を停めんとし、新井溝を構築す、是日、直政、同井がかりに新田を開くを禁ず、
425
明正
寛永一二年六月二五日
1635
筑摩郡松本全久院専英、特雄、寂す、
425
明正
寛永一二年六月三〇日
1635
幕府、諸大名の在府・帰国の人員を定め、西国諸大名を留め、東国諸大名仙石政俊等に帰国の暇を与ふ、
427
明正
寛永一二年
1635
筑摩郡盛泉寺の石造地蔵菩薩像、成る、
428
明正
寛永一二年七月四日
1635
松平直政の家臣藤田次兵衛、安曇郡堀之内村の前年分年貢の納払を皆済せるを証す、
429
明正
寛永一二年七月五日
1635
徳川家光、松平直政等諸大名に、放鷹狩獲の雲雀を与ふ、
434
明正
寛永一二年七月六日
1635
伊那郡虎岩村の清十郎等、おとし木のため、同村平沢新十郎より借米す、
434
明正
寛永一二年七月七日
1635
佐久間勝友・同勝盛、同勝之の跡職相続の御礼のため、徳川家光に目見えす、 諏訪頼水室、婚姻聴許を謝し、徳川家光に物を献ず、
435
明正
寛永一二年七月一〇日
1635
安曇郡押野村の善左衛門等、渋田見村の流木に関する争論を裁し、新田上町と渋田見村との入会となすことを渋田見村に約す、
436
明正
寛永一二年七月一二日
1635
真田信之の江戸屋敷、類焼す、
437
明正
寛永一二年七月二三日
1635
筑摩郡上生野村等よりの仕出し、榑木請取帳、成る、
438
明正
寛永一二年八月四日
1635
徳川家光、脇坂安元をして、武蔵川越城主堀田正盛の弟安利を養嗣子となさしむ、
440
明正
寛永一二年八月四日
1635
伊那郡伊豆木村、寛永十年の同村荒流帳を記す、
441
明正
寛永一二年八月九日
1635
松平直政の家臣市川久兵衛、安曇郡塩島村の前年分年貢の納払を皆済せるを証す、
451
明正
寛永一二年八月一五日
1635
堀直升、高井郡八幡社に鏡を寄進す、
452
明正
寛永一二年八月二五日
1635
幕府、仙石政俊等東国諸大名に、帰国の暇を与ふ、
452
明正
寛永一二年八月二五日
1635
脇坂安元等、徳川家光に目見えし、物を献ず、
453
明正
寛永一二年九月二日
1635
山村良豊、家中の者の妻子を江戸より召寄せんとし、上野横川関通過の手形を、幕府留守居牧野信成等に請ふ、
454
明正
寛永一二年九月一二日
1635
松平忠憲憲良、の家臣渡辺時、小県郡長安寺分山畑を除地とす、
455
明正
寛永一二年九月一四日
1635
幕府、江戸より京都に至る街道筋に盗賊等の徘徊するに寄り、諸大名に領内の吟味を命ず、仍りて、徳川義直、その旨を木曽筋にも触れしむ、
455
明正
寛永一二年九月一七日
1635
諏訪頼水の家臣三輪知友、筑摩郡和泉村の惣兵衛に、前年分年貢の納払皆済目録を渡す、
456
明正
寛永一二年九月二五日
1635
木曽岩之郷村、山村良豊手代川崎清左衛門等に、法度請書を指出す、
457
明正
寛永一二年九月二八日
1635
脇坂安元、家中の女人の近江大津より伊那へ赴かんとするに当り、京都所司代板倉重宗に関所手形を求む、是日、重宗、手形を発す、
458
明正
寛永一二年九月二八日
1635
仙石政俊、小県郡築地村の本年年貢高を定む、尋いで、同郡諏訪部村等領内諸村の本年年貢高を定む、
459
明正
寛永一二年
1635
保科正之、母浄光院、の病気を訪はんとし、伊那郡高遠に帰る、
467
明正
寛永一二年一〇月三日
1635
伊那郡安養寺毘沙門堂、成る、
467
明正
寛永一二年一〇月一〇日
1635
幕府代官岩波道能の手代後藤庄右衛門等、佐久郡下桜井村本年枯流の検見帳を記す、
468
明正
寛永一二年一〇月一一日
1635
木曽興禅寺住持祖昌、桂岳、同寺檀那木曽岩之郷村郷左衛門等の、吉利支丹宗徒に非ざる旨を山村良豊に上申す、
470
明正
寛永一二年一〇月一八日
1635
幕府代官近山安俊等、高井郡西条新田村等に、本年年貢を割付く、
471
明正
寛永一二年一〇月一八日
1635
幕府代官天羽景慶等、高井郡亀倉村等に、本年年貢を割付く、
478
明正
寛永一二年一〇月二〇日
1635
幕府代官岩波道能の手代島田理兵衛、佐久郡井出次久より、前年分の年貢納金を請取る、
489
明正
寛永一二年一〇月二五日
1635
佐久郡上村の内蔵介等、同郡井出次久等より、本年蔵納年貢を預る、
490
明正
寛永一二年一〇月二六日
1635
真田信之、菅沼二郎左衛門に命じ、領内山中麻の領外出荷等の取締を厳にせしむ、
491
明正
寛永一二年
1635
伊那郡虎岩村、是月より本年種借米を請取る、
491
明正
寛永一二年一一月一日
1635
真田信之、江戸城総郭の普請手伝を命ぜらるるに依り、出浦半平等をして、人足調達にあたらしむ、
493
明正
寛永一二年一一月一五日
1635
真田信之、長井四郎右衛門に知行を加給す、尋いで、菅沼九兵衛等に知行を給す、
494
明正
寛永一二年一一月二四日
1635
伊那郡虎岩村の清八等、太郎七を未納年貢の質として、同村平沢新十郎に預く、
496
明正
寛永一二年一一月二六日
1635
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
497
明正
寛永一二年一一月二八日
1635
脇坂安元の家臣松原秀政、伊那郡片桐の内小平村等の納高を定む、
498