長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十六 (500頁~)
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明正
寛永一二年一二月一日
1635
幕府代官岩波道能、佐久郡高野町村等に、本年年貢を割付く、
501
明正
寛永一二年一二月二日
1635
脇坂安元の家臣松原秀政、伊那郡伊久間村の本年年貢帳を記し、納米取立方を同村の才二郎に申付く、
505
明正
寛永一二年一二月六日
1635
上野沼田城主真田熊之助、同信吉の跡職相続の御礼のため、徳川家光に目見えす、
506
明正
寛永一二年一二月七日
1635
前佐久郡大徳寺住持芳達、大翁、寂す、尋いで、秀浦、蔓、同寺に継住す、
507
明正
寛永一二年一二月一〇日
1635
佐久郡臼田村の左兵衛、同郡井出次久等より、前年分納残米を預る、
508
明正
寛永一二年一二月一〇日
1635
真田信之、出浦半平をして、明年江戸城普請手伝の人足・道具等のことを沙汰せしむ、
508
明正
寛永一二年一二月一三日
1635
幕府代官天羽景慶の手代坂原兵左衛門、高井郡押切村の寛永十年分年貢払金を請取る、
510
明正
寛永一二年一二月一四日
1635
佐久郡八郡村甚七郎等、同郡井出次久等より、本年納年貢雑穀を預る、尋いで、同郡大深山村喜右衛門等も預る、
510
明正
寛永一二年一二月一六日
1635
陸奥盛岡城主南部重直領内に吉利支丹改めあり、信濃より移住せる町人又左衛門等、捕へらる、
512
明正
寛永一二年一二月一九日
1635
徳川義直、山村良豊に、毎年白木五千駄を江戸口へ出すを許す、
514
明正
寛永一二年一二月二二日
1635
幕府代官岩波道能の手代島田理兵衛、佐久郡井出次久より、山年貢金等を請取る、
515
明正
寛永一二年一二月二五日
1635
佐久郡上村の内蔵助等、同郡井出次久等より、蔵籾を借用す、
515
明正
寛永一二年一二月二六日
1635
脇坂安元の家臣松原秀政、伊那郡虎岩村平沢新十郎に、年貢残米払手形を渡す
516
明正
寛永一二年一二月三〇日
1635
佐久郡高見沢左伝次、本年分算用状を進む、
517
明正
寛永一二年
1635
仙石政俊、江戸城日比谷門奉行を勤む、
518
明正
寛永一二年
1635
佐久郡片倉村、同村新田帳を記す、
518
明正
寛永一三年正月一日
1636
林道春、羅山、脇坂安元の新年試筆の和歌の脚韻を和して、詩を製し、之を安元に贈る、
521
明正
寛永一三年正月八日
1636
幕府、江戸城総郭の造営を始む、真田信之等信濃の諸大名、城溝疏鑿の普請手伝を勤む、 真田信之、家臣の夫役割を定む、
521
明正
寛永一三年正月二〇日
1636
山村良豊、川崎清左衛門等をして、御免白木を木曽贄川にて売払はしむ、
531
明正
寛永一三年正月二三日
1636
茂左衛門等、筑摩郡青柳太兵衛より、前年分の問屋役銀を請取る、 筑摩郡岩殿寺某、同郡青柳太兵衛に名乗一字を贈る、
532
明正
寛永一三年正月二四日
1636
某広守、安曇郡穂高社に願文を納む、
533
明正
寛永一三年二月一日
1636
水内郡戸隠山学頭・更級郡八幡社神宮寺惣代等、徳川家光に目見えす、また、水内郡善光寺別当も目見えす、
534
明正
寛永一三年二月四日
1636
脇坂安元の子同安利、卒す、尋いで、安元、和歌を詠じて、之を悼む、林道春、羅山、その脚韻を和して詩を製し、之を安元に贈りて、追悼の意を表す、
534
明正
寛永一三年二月二三日
1636
幕府、下野日光山東照社遷宮に臨まんとする公家衆・門跡衆の、木曽路を下向するに依り、その路筋の給人・代官衆をして道中人馬を調へしむ、
535
明正
寛永一三年二月二三日
1636
是より先、徳川義直、美濃の木曽組衆並びに組同心の知行高を知らんと欲し、その書上方を山村良豊の奉行沢田太左衛門に命ず、是日、良豊、太左衛門の書上に、山村組同心たる千村九右衛門の身分の組衆とあるに依り、美濃久々利手代島崎与右衛門をして、千村重長にその仔細を糺さしむ、
536
明正
寛永一三年二月二八日
1636
是より先、山村良豊、播磨竜野城主岡部宣勝の家臣原治兵衛とその妻子の、木曽福島関所の通過を止め、宣勝の追手に妻子を渡す、是日、良豊、その旨を宣勝に報ず、
538
明正
寛永一三年二月二九日
1636
幕府、真田信之に、信濃より上方への女手形加判人を命ず、
539
明正
寛永一三年三月三日
1636
諏訪頼水、帰国の暇を賜はる、
541
明正
寛永一三年三月九日
1636
是より先、水内郡大坪村百姓等、同村内の地を、同郡戸狩真宗寺に寄進す、是日、佐久間安次、勝長、同寺をして、之を安堵せしむ、
541
明正
寛永一三年三月一二日
1636
徳川義直の老臣成瀬正虎等、木曽川並村々をして、山村良豊の指図に従ひ、江戸城総郭用材流送を手伝はしむ、 幕府、木曽衆をして、江戸城用材を搬出せしむ、
543
明正
寛永一三年三月二二日
1636
佐久郡竜雲寺住持慶学、正山、寂す、
545
明正
寛永一三年三月二七日
1636
筑摩郡小野社大祝、門百姓金七郎に暇を出す、是日、金七郎、請書を出す、
545
明正
寛永一三年
1636
筑摩郡岩殿寺、同寺を再興せんとし、その助力を求む、
546
明正
寛永一三年
1636
小県郡田沢村の内の中村、百姓持高名寄帳を記す、
546
明正
寛永一三年四月一日
1636
真田信之、坂巻夕庵平次、の疾重きに依り、同虎松をして、その跡式を安堵せしむ、 坂巻夕庵に関する書状及び坂巻夕庵の子助六に関する文書等
557
明正
寛永一三年四月三日
1636
徳川義直、木曽路を通り、下野日光山東照社に致らんとし、是日、山村良豊宅に宿す、
569
明正
寛永一三年四月五日
1636
紀伊和歌山城主徳川頼宣、木曽路を通り、下野日光山東照社に致らんとし、是日、山村良豊宅に立寄る、
571
明正
寛永一三年四月一一日
1636
脇坂安元の家臣脇坂内膳等給地の百姓、伊那郡虎岩村より同郡島田村にかかる井溝の間数を注す、
571
明正
寛永一三年四月一一日
1636
仙石政俊等、参覲す、
572
明正
寛永一三年四月一三日
1636
徳川家光、下野日光山東照社還宮に赴く、松平直政等、之に供奉す、尋いで、家光、家康廿一回忌法会に臨み、直政等、之に随ふ、 諏訪頼水、下野日光の諏訪忠恒の許にある千野十郎兵衛の書状に答へ、諸事を指示す、
573
明正
寛永一三年四月一八日
1636
佐久郡北沢村の弥五兵衛、同郡井出次久より、蔵払籾を借用す、
575
明正
寛永一三年四月二二日
1636
山村良豊、その女の侍女を江戸より召返さんとし、幕府留守居牧野信成等に、上野横川関通過の手形を出されんことを請ふ、
576
明正
寛永一三年四月二三日
1636
脇坂安元の家臣藤村七左衛門、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、同村前年分の種子米を請取る、
576
明正
寛永一三年四月二五日
1636
知久則直領伊那郡阿嶋村百姓、脇坂安元領同郡伴野村百姓と伴野村大平入会地につき争ひ、是日、之を安元の家臣松原秀政に訴ふ、尋いで、伴野村百姓、則直の家臣飯尾半二郎に訴ふ、
577
明正
寛永一三年四月二七日
1636
真田信之の家臣木村茂成、小県郡石合新左衛門に金子借用を申入る、
578
明正
寛永一三年四月二八日
1636
真田信之、徳川家光の下野日光山東照社参詣の無事を賀し、酒肴を贈る、是日、幕府老臣等、之を謝す、
579
明正
寛永一三年四月二八日
1636
山村良豊、女人五人を江戸に遣はさんとし、上野横川関松下源左衛門等に、その通過を依頼す、
580
明正
寛永一三年四月三〇日
1636
徳川義直の老臣成瀬正虎等、山村良豊に、江戸上屋敷年寄衆、木曽福島関に下せる女手形に関する幕府年寄衆奉書の返還を求む、尋いで、良豊、之を返却す、
580
明正
寛永一三年五月六日
1636
勅使前内大臣三条西実条・同権大納言日野資勝・院使参議姉小路公景等等公家衆及び門跡衆、木曽路を経て下野日光山東照社還宮に臨み、是日、江戸城に於いて、徳川家光に目見えす、
582
明正
寛永一三年五月七日
1636
幕府代官岩波道能の手代島田理兵衛、佐久郡井出次久より、前年分の納籾売付金を請取る、
587
明正
寛永一三年五月八日
1636
是より先、牢人虎岩清右衛門、木曽福島関に於いて狼藉し成敗せらる、是日、山村良豊、その次第徳川義直に報ず、
587
明正
寛永一三年五月一一日
1636
幕府領高井郡吉田村等の庄屋、代官所に村内の社領のことを注進す、
590
明正
寛永一三年五月一三日
1636
是より先、幕府、信濃国絵図を製らんとし、代官岩波道能に命じ、信濃の諸大名・代官よりそれぞれ絵図を徴せしむ、是日、道能、徳川義直領木曽谷絵図の調製につき山村良豊に図る、尋いで、良豊、絵図を道能に渡す、 千村重長、幕府の命に依り、伊那郡絵図の調製に当り、同郡寺社領の石高を注す、
592