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(一五)竹田藥師院○昌慶以下歷代

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 【昌慶】竹田藥師院の中祖昌慶は、正平二十四年三十二歳にして明國に赴き、(泉州堺醫家竹田藥師院由緖書)金翁道士に隨ひ、醫書及び牛黃圓等の祕方妙術を受け、名を明空と改め、翁の女を娶つて二子を生んだ。(日本醫學史、全堺詳志附錄)天授四年六月歸朝して、其業大に行はれた。此事天聽に達し、法印位を賜ひ、侍醫に準ぜられた。諡號を醫學通神明空淨眼といふ。【善慶】其子善慶は應永十九年後小松天皇を醫療し奉り法眼に敍せられ、同二十八年稱光天皇御不豫に際し、醫藥を進めて更らに法印に陛敍せられた。【昭慶】昭慶は長祿二年大聖院宮の病を治めて法眼に敍せられ、應仁二年將軍足利義政を醫療して法印に進められた。【堯慶堯慶は長享元年九月將軍足利義尚六角高賴を討伐して近江に發向せむとするや、義政の命によりて、隨員の列に加はり法眼に敍せられた。【圓俊居を堺に移す】堯慶の子圓俊高定に至つて、始めて堺に居を移し、家聲益々揚がり、明應元年三月後土御門天皇の勅によつて參内し、法眼位を拜し、侍醫に準ぜらるゝこと故の如く、且つ天盃を拜戴し、宸翰を拜受した。其後文龜三年後柏原天皇の御腦を治して法印に敍せられ、且つ小劒一口を拜戴し藥師院の稱號を下し給はり、【竹田藥師院】爾來竹田藥師院と稱することゝなつた。【定快定快に至り天文の始め法橋に敍し、同十年法眼に進み、弘治元年後奈良天皇御不豫の時病を拜して效あり、法印に陞敍した。【圓璡定信圓璡定信豐臣秀吉の病を治して法眼に敍し、堺に於て食祿千石を給せられ、文祿三年十二月法印に進み、又竹田の醫流を永く繼承せしめんが爲めに、【舳松町に屋敷を與へらる】舳松町に於て屋敷地を與へられ、猶ほ諸役免除の印狀を授けられた。【圓璡隆品圓璡隆品德川家康の時、關東に奉仕し、食祿千石を給せられた。家康家方の牛黃清心圓を服用して藥效現はれ、爲めに感狀を與へた。元和九年法眼に陞敍せられ、老齡に及んで致仕し、堺に歸つて老を養ふた。同姓の者、同流を以て幕府に仕へて食祿を給せられ、兵部卿と號した。【竹田家別流】これ竹田醫家別流の始めである。【圓璡定源圓璡定源は寬永十一年將軍德川家光上洛の際、禁裏に召出され、卽ち堺より京都に上り、法眼に敍せられた。【圓三】藥師院圓三は若冠より京都に遊び、名醫の門を敲いて硏鑽怠ることなく、又諸儒の門に出入して、紀傳明經の書を涉獵すること二十餘年にして、堺に歸つた。名聲大に振ひ、阪堺の患者踵を接して其門に集つたが、痼疾あるの故を以て、官仕するに至らなかつた。時に某醫生あり、少壯より京都に出で、醫術を法眼平井春益に學び、其後堺に歸り、竹田圓俊定泰に從ひ、竹田家の醫術を學んだ。時に圓俊の子早世し、嗣子なきを以て、【圓俊弟子に藥師院の本家を讓る】圓俊之に竹田藥師院の本家を讓り、猶ほ圓璡の名稱を襲がしめた。圓璡は元文元年八月二十六日法橋に敍せられた。(泉州堺醫家竹田藥師院由緖書)竹田家は半井家と相駢んで、杏林の名流であるが、後世に及んでは、其家格を墨守するに過ぎなかつた。(全堺詳志附錄)