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(三五)古嶽宗亘

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 宗亘字は古嶽、生苕或は苕波、又は夕巢庵と號した。【大僊院流の始祖】大僊院派の始祖で、(龍寶山大德禪寺世譜、寶山住持世記上)近江蒲生郡の名族佐々木氏の出である。四歳の時既に文殊の五字咒を暗誦し、強記を歎稱せられた。八歳にして巖間寺の義濟に就いて落髮し、教外別傳のあることを知り、十一歳の時上洛して建仁寺の喜足噱公に依り、二十三歳春浦宗珉に大德寺に參したが、契機協はざるものがあり、去つて如意菴に實傳宗眞に謁し、請益すること二十年、終に印可を得た。(本朝高僧傳第四十四、龍寶山大德禪寺世譜)【大德寺出世】永正六年九月大德寺に出世し、第七十六世となつた。大仙院を創立して退去したが、(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)當時の搢紳道を問ふもの夥しく、足利義稙、藤原房冬、同公光等を始めとして衣盂法號を受くるもの頗る多かつた。(本朝高僧傳第四十四)【禪師號勅賜】大永元年十月後柏原天皇特に佛心正統禪師の號を賜はり、後奈良天皇は師禮を以て之を遇し、屢々下問せられ、勅して帽子を著し、肩輿に乘つて宮中に入ることを允された。斯くして亦天文五年十二月後奈良天皇正法大聖國師の徽號を下賜せられた。(龍寶山大德禪寺世譜)古嶽曾て堺に來り、南莊舳松に在つた一小庵を見て小憩の地とし、【南宗庵】大永六年八月南宗菴と改稱した。(古岳和尚筆南宗庵改稱偈)同庵は卽ち南宗寺の先蹤をなすものである。此時古嶽の改稱の偈文によると、舊庵を改稱して、曹溪派をして後蹤を嗣がしむべきではあるが、傳ふべき衣鉢とてはなく、唯庭上に一株の松があるのみであると見えてゐる。又古嶽はこの小庵に於て、其弟子宗桃に宗套の諱を授與した。(古嶽筆宗套名取狀)卽ち此偈文と宗套名取狀とを綜合して考ふるに、後繼者は其門弟で、共に此一小庵に起臥した大林宗套にあることが窺はれる。古嶽詩文に長じ、【書畫を能くす】書を能くし、筆硯を弄して達磨像及び十牛圖を作つた。(續本朝畫史卷之下)天文十七年五月大仙院に病臥し、六月に至つて重體に陷り、皇上勸修寺大納言藤原尹豐を勅使として其疾を問はしめらるゝの光榮に浴した。次いで二十四日起座して偈を書して曰ふ「拄杖覔末後句、踢倒(一に到擲に作る)萬仭龍峰、請汝試卓破看、滅却臨濟正宗」と。筆を抛つて示化した。世壽八十四を數へ、法臘六十八であつた。天皇深く哀悼し給ひ、再び尹豐を勅使として、金剛經及び青銅錢若干緡を下賜して、喪儀の資となさしめ給ふた。遺骸を大仙庵の北隅に葬り、塔を其上に建て、松樹を植ゑ、之を松關と號した。(本朝高僧傳第四十四、龍寶山大德禪寺世譜)