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(五〇)僊嶽宗洞

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 宗洞、字は僊嶽無底籃と號した。(紫巖譜略)【堺の谷氏】堺の人谷眠牛齋宗本居士の第二子で、(僊嶽雲英兩和尚畫像裏書、龍寶山祖師傳卷五)善三郞安光(呼雲齋宗臨居士)の弟である(谷氏系圖)十三歳出家、大林宗套に就いて剃髮得度した。久しく紫野の諸耆宿に參し、法を笑嶺宗訢に嗣いだ。(龍寶山祖師傳卷五)【大德寺出世】天正七年九月勅を奉じて大德寺に入り、其第百二十二世となつた。(紫巖譜略)又南宗寺第六世を繼ぎ、(南宗寺歷世年譜)笑嶺の命により、【海眼庵一世】堺海眼庵に入り、第一世となつた。庵はもと尼寺で、其尼僧から笑嶺に寄進したものである。(祖心本光禪師行狀)文祿四年十月二日同庵に於て示寂した。辭世の偈にいふ、「末後捧頭、怒雷閃電、打破虛空、成七八片。」と。世壽五十三。遺骸を南宗寺内、普通、本光兩祖塔の側に葬つた。法嗣に雲英宗偉がある。(無底籃仙岳宗洞書附、僊嶽雲英兩和尚畫像裏書)書道に通じ、曾て本山金光閣の題額を揮毫した。(紫巖譜略)