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(五六)玉仲宗琇

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 宗琇、字は玉仲、自ら闡提子又は休々子と號した。(龍寶山大德禪寺世譜)法を春林宗俶に嗣ぐ。日向櫛間の人で、【大德寺出世】永祿十三年二月勅を奉じて大德寺に入り、第百十二世となつた。(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【禪通寺中興第二世】又堺禪通寺の中興第二世を嗣ぎ、(龍寶山大德禪寺世譜)同寺在住中、天正四年の春淨財を募つて庫司を再築した。(玉仲遺文)同九年十二月、【禪師號敕賜】正親町天皇は特に佛機大雄禪師の號を賜はつた。同十一年小早川隆景黃梅院を創建し、請して第一世とした。【秀吉の信任】豐臣秀吉玉仲を信ずること厚く、總見、天瑞の二刹を創設し、玉仲を開祖とした。天瑞寺は金鳳山と號し、同十六年秀吉其母、天瑞寺殿春巖宗桂大姉の爲めに創設したものである。(龍寶山大德禪寺世譜)【今井氏との親交】又今井宗久、宗薰等と親交あり、宗久の委囑により、織田信長及び武野紹鷗の石塔銘を作り、又宗薰の爲めには、其先妣の畫像並びに宗薰の壽像に贊した。(玉仲遺文)慶長九年十一月十六日世壽八十三歳を以て遷化、遺偈に曰ふ「生也不來、死也不囘、機輪通變、瞎驢雷。」と。(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)遺編に法用文集がある。