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(九〇)千 宗淳

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 千宗淳は幼名を吉兵衞と稱し、少庵と號した。(禪餘小記)【利休の二子】利休の第二子で、母は繼室宗音尼實は連子であるといふ。(翁草卷三)茶湯を父に學び、又和歌を能くした。兄道安痼疾の爲め、宗淳家を繼いだ。(明良洪範卷二十)少壯の頃には頗る遊藝に耽り、素行修らなかつた。(千與吉より實相院宛覺書)父の罪に坐して、蒲生氏鄕に預けられたが、後赦されて京に歸り、秀吉から利休の舊宅及び茶室等を下附され、之を上京の本法寺前に徙した。【不審庵】乃ち不審庵である。(明良洪範卷二十)利休不審庵の大字の額字は萬代屋宗貫が所持して居つたが、宗淳は之を堺の鹽穴寺へ寄附した。(神田半之允、神田道伴書狀)慶長十九年九月七日享年六十九歳を以て歿した。紫野の聚光院に葬り、法號を少庵宗淳居士といふ。(茶人大系譜、茶事談、茶人系傳全集、茶家系譜詳本)母宗音は堺宮尾道三の女で、數寄の才あり、利休の後妻となつたのである。道三は謠曲及び茶事を能くし、又書道の名手であつた。(堺鑑下、茶人系傳全集)