伊藤吉左衞門諱は信通、松軒と號した。奈良奉行所附與力玉井定知の次子で、堺奉行所附與力伊藤博就の養子となつた。十三歳堺奉行に才識を認められ、始めて見習役となつた。十七歳武具方となり、爾後累遷して地方役、同心支配調役、新地方等に轉じた。天保十一年江戸西城、弘化二年江戸城の造營に方り、銅瓦製作の工を督し、功を以て銀若干を賞賜せられた。信通人と爲り頴敏、事變に遭遇するや、才氣喚發として其處置宜しきを得た。【非常時の措置】天保八年の飢饉、大鹽平八郞の騷擾、嘉永七年魯艦堺近海へ來航の際等に當り、各々機宜の處置を執つて誤らなかつた。【堺砲臺築造の功】又安政二年砲臺築造に與り、功勞少くなかつた。信通の事を處する其才氣に加ふるに至誠を以てし、爲めに庶務大に擧り、衆皆其德に服した。【砲術の達人】又銃術を能くし、茶、香兩道を始め、俳諧、蹴鞠の餘技に至るまで、皆よく奧祕を究め、(墓表)俳名に終日庵此角、茶湯に萍齋の號がある。(堺史料類纂)久保氏を娶り子なきにより大阪の士人松井英應の次子耀信を養ふて職を襲がしめたが、既にして一男一女を生んだ。男名を信行といひ、稍々長ずるに及んで、耀信の嗣子たらしめ、女は同隊士戸田忠告に嫁せしめた。(松軒伊藤君墓碣銘)【津浪碑の撰文】現大濱公園にある津浪碑の碑文は吉左衞門の撰になつた。(堺史料類纂)【墓所】安政三年二月九日享年五十九歳病歿、妙國寺先塋の次に葬つた。(松軒伊藤君墓碣錄)法號を梅聲院信通日成居士といふ。墓碣銘は奧野小山の撰文で、嗣子耀信の建てたものである。(墓表)