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(五八)清巖宗渭

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 宗渭字は清巖、自ら自笑子、又孤陋子と號した。(龍寶山大德禪寺世譜)【佐々木氏の一族】近江大石の人、俗姓は奧村氏、佐々木氏の一族である。九歳玉甫紹琮に就いて出家し、歿後、上足賢谷宗良の法を嗣いだ。【大德寺住職】寬永二年十一月大德寺の第百七十世となつた。【禪師號勅賜】【南宗寺十三世】【德泉臨仕兩菴開山】寬文元年十月後西天皇、清淨本然禪師の徽號を賜はり、(紫巖譜略)次いで南宗寺に入つて第十三世となり、(南宗寺歷世年譜)同寺内に德泉及び臨江の二菴を開創した。(紫巖譜略)德泉菴は慶安二年松江宗安が、其母德泉の追福の爲めに建てたもので、(松江宗安墓誌)方丈の扁額、德泉菴の三大文字は卽ち清巖の筆蹟である。又臨江菴は寬文中今井兼續の創建になり、(今井家之硏究)清巖を招請して開山としたものである。【南宗寺經營】後亦南宗寺の經營に意を用ひ、正保四年六月中村家久の喜捨によつて、山門卽ち甘露門を造營した(南宗寺山門棟札)【東海寺初住】澤庵の歿後、慶安二年幕命により品川東海寺の初住となり、道譽彌々高く、又高桐院の三世となり、本山の東林、祥林、泰松、清源、耕雲、松泉の七菴及び達磨堂を領し、四方に錫を飛ばしては、豐後の圓福、同國中津の祥雲、伊賀の龍王、妙華、玉龍の諸寺、東海寺の清光院、洛東の禪華菴、肥後宇土の泰雲寺等の開祖となつて居る。(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜、龍寶山祖師傳卷五)清巖は少壯より、書をよくし、老境彌々妙趣に達し、虛堂の神髓を得た。【書畫を能くす】又詩文を好み、草畫をも作つた。(工畫便覽、續本朝畫史卷下)清巖曾て自畫の如意に贊して曰ふ、「丿貫が丿、利休が利、かゆいところへ手のとゞくまで」と。(近古禪林叢談)寬文元年十一月二十一日世壽七十四歳を以て歿し、高桐院に葬つた。【遣偈】頌に曰ふ、「快活々々、滅却宗猷、末後密旨、柱杖點頭」と。(紫巖譜略、寶山住持世記上、龍寶山大德禪寺世譜)