西宗眞通稱九郞兵衞、父を宗源(初代九郞兵衞天正十四年八月二十二日歿)母を妙信(元和五年二月十三日歿す)といひ(四家系圖)基督教徒名をるゐす(類子)といふ。【るゐす大村喜前の家臣】【呂宋に渡航す】父宗源肥前大村の領主大村丹後守喜前の家臣として同國大浦を領し、知行七百名を食み、
宗眞其地にあり屢々呂宋に航し、通商に從事した。(西類子由緖書)其始めは文祿、慶長の頃と思はれ、(
朱印船貿易史)慶長十年に至るまで、數度航海往復し、(西類子考(日本及日本人第六百三十三號))略々彼の國情を察し西班牙語に通じた。當時
德川家康海外貿易に意あるや、
宗眞大村氏の推擧によりて家康に見え、主として呂宋に往復して活動した。【名を
宗眞と改む】斯して元和三年頃より退隱して大浦に閑居し、ころび人並となり、法華宗に歸し、薙髮して名を
宗眞と改めた。【堺に永住す】次で亦、是より先き、元和二年堺に邸宅を購ひ、同六年よりこゝに永住することゝなつた。(西類子由緖書)正保三年正月十五日歿し、
本受寺に葬られた。法號を東漸院
宗眞日源居士といふ。【墓碑】墓碑は五輪塔、高さ凡十
尺、生前に築造したもので、西面に妙法蓮華經と題し、經字の左右に元祖日蓮大菩薩、開基
日隆大聖人と二行に書し、北面には父宗源天正十四年丙戌歳八月二十二日、母妙信元和五己未歳二月十三日、南面に父永德天正十九辛卯歳三月十九日、母妙崇寬永三丙刁歳九月七日と記し、東西には經逆修、其左右に東漸院
宗眞日源居士正保三丙戌曆正月十五日、養光院宗月萬治元戊戌曆十月十日、
本源院宗玄靈寬文元辛丑年八月三十日、本照院
宗信靈天和二壬戌十月八日と鐫刻してある。東漸院
宗眞日源居士は卽ち類子、で養光院宗月は其妻である。宗源、妙信は父母で、永德、妙崇は室、宗月の生父母であらう。而して
本源院宗玄は
宗眞の嗣子(三代九郞兵衞)、本照院
宗信は(四代九郞兵衞)宗玄の嗣子である。【
宗眞の遺品】同寺には、
宗眞が家康より受領したと稱する羽織を始め、
朱印狀及び其他の書類を所藏して居る。【後裔】過去帳には、西家の七代迄を記載し、七代目たる西周圓は、延享三年九月十八日を以て歿したとあるから、其頃まで同家は堺に在つたものゝやうである。
第七十四圖版 西類子由緖書
第七十五圖版 西類子拜領道服
第七十六圖版 西類子墓碑