【位置】高須神社は北半町東二丁字高須に鎭座す。【祭神】祭神は猿田彦命、宇食持命、大宮姫命、(社寺明細帳)社地は櫻之町の鐵砲鍛冶芝辻理右衞門入道道逸、元和元年德川幕府に乞ふて附與せられたものである。【創祀】此處は堺の鬼門に當るとて、同五年道逸稻荷明神を勸請した。依つて高須稻荷神社と稱した。卽ち當社は芝辻家の私社で、修驗者を置いて、堂宇を守護せしめたが、元祿六年再興の際より、【別當寶祥院】醍醐三寶院所屬寶祥院の支配に歸するに至つた。享保三年十一月修繕を加へ、同八年六月正遷宮の祭典を擧行した。(芝辻文書)明治元年閏四月從來の社僧を廢した。(堺史料類纂拾遺)【社格】同六年三月十三日村社に列し、【合社】同四十年九月錦之町西二丁字梅翁寺鎭座の村社菅原神社、車之町東一丁字殿馬場鎭座の無格社稻荷神社(天白稻荷)を合祀し、同四十一年六月今の社名に改め、同四十二年六月神饌幣帛料供進社に指定せられた。同四十三年七月更らに綾之町西三丁字海船鎭座の村社琴平神社を合祀した。境内八百四坪、本殿、拜殿、社務所あり、末社に菅原神社(祭神菅原道眞)琴平神社、(祭神大物主命)がある。(社寺明細帳)【例祭】例祭は古來陰曆二月の初午若しくは二の午の日の定めである。
【舊菅原神社】菅原神社はもと錦之町西二丁字梅翁寺にあつて、翁天滿宮と稱し、恩光院梅翁寺別當として奉祀したが、(翁天滿宮略緣起)慶應四年閏四月二十三日梅翁寺と分離し、梅翁神社と稱した。(明治三十五年神社提出書類)明治六年村社に列し、境内七十坪、本社及び神樂殿、境内末社に稻荷社があつたが、明治四十年九月高須神社に合祀せられた。(社寺明細帳)
【舊稻荷神社】稻荷神社は車之町東一丁字殿馬場に奉祀し、一に天白稻荷と呼ばれ、もと舊堺奉行所の域内にあり、祭神は保食神である。(社寺明細帳)天正四年石田三成堺政所の際、鎭守として勸請したもので、當時社殿壯麗を極め、(堺史料編纂)德川幕府時代にも代々の奉行篤く之を崇敬し、每年二月の初午には、奉行先づ參拜し、衆庶は後門より自由に參詣せしむることゝし、以て恆例とした。(一色山城守御用留)明治維新後無格社となり、末社に琴平神社及び嚴島神社があり、本殿及び社務所を具へてゐたが、四十年九月高須神社に移轉合祀し、(社寺明細帳)同時に境内の石燈、石鳥居、碑石等を擧げて之を同社に移した。
琴平神社はもと綾之町西三丁字海船にあり、祭神は大物主命である。當社は寬政年間海船町の漁夫藤井清五郞小祠を其宅地に建て、後清壽院と號して之に奉祀したが、文化十三年社地を此處に移した。(金毘羅權現緣起(堺史料類纂))明治維新の際清壽院を廢し、六年三月二十三日村社に列せられた。(堺史料類纂拾遣)本殿、社務所、藥醫門あり、二社の境内末社があつたが、四十三年七月高須神社に合祀せられた。(社寺明細帳)