正法寺は靈龜山と號し、【位置】中之町東三丁字九艘小路にあり、淨土宗西山派禪林寺末、寺格準檀林格、【沿革】觀惠良空の開山で、三國山靈顯院と號した。後花園天皇深く良空を崇信せられ紫衣を下賜し勅願所とせられ、將軍足利義政に命じて寺刹を攝、河、泉三國の境界に創建せしめられた。次いで後土御門天皇寺領を施入せられた。(正法寺略緣起)第十三世策傳日快(寬永十九年正月八日寂)は、紫衣の中興となり又第十六世專空還魯(元祿三年九月二十五日寂)の時一山を復興した。第二十九世惠空千良時代寺運頗る衰へたが、第三十世仁空觀靜天保十年八月入院して整理に努め、第三十一世照空觀冏亦力を寺觀の整備に盡した。(正法寺歷世譜)【蔡華院】塔頭蔡華院は、もと菴號を稱したが、細屋清心尼及び隱士文益荒廢を惜しみ再建し、延寶五年十一月成り、菴を改めて院とした。(正法寺蔡華院記)【引接寺併合】明治六年勅定山引接寺を併合した。(堺史料類纂)【堂宇】本堂、庫裏、客室、玄關、納家、門あり、又觀音堂がある。境内六百七十六坪。(社寺明細帳)【釋尊降魔成道圖】寺寶釋尊降魔成道圖一幅は中村彦左衞門暹羅より長崎渡航の船舶に託して之を當菴に寄進したもので、當住專空還魯緣起一卷を作り、衆生結緣の爲に、寬文元年八月、同閏八月再度之を當寺に揭げ展觀したものである。(釋尊降魔成道圖裏書、黃緣起)【古文書】其他官符宣(太政官牒河内西琳寺弘安四年五月)一卷、足利義勝寄進狀(嘉吉二年十一月)、同義政安堵狀(文明二年九月)、同寄進狀(同二年)、同安堵狀(同四年二月)、同禁制狀(同五年九月)、織田信長制狀、畠山式部少輔書狀一幅、松浦安太夫消息一幅、水野重政書狀一幅、【古寫經】稱讚淨土經一卷、勅定山引接寺緣起一卷等がある。境内に傳空海作俗に撫地藏と云はれる石地藏菩薩像一軀、【荒神碑】又舊三寶寺の本尊であつた荒神像がある。【墓碑】又墓地には儒醫河野進齋の墓碑がある。