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(二)臨江菴

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 【位置】臨江菴は南半丁東二丁にあり、臨濟宗大德寺大德寺末、寺格五等地。もと南宗寺塔頭の一で、公儀堀に臨んでゐるので此名がある。(元祿二年堺大繪圖)【開基と開山】寬文年間今井彦右衞門兼續の創立で、清巖宗渭が開山である。(今井家の硏究)【本尊】本尊釋迦如來。庭前に自然石の碑あり、表面に乳守之舊蹟と題し、【季鷹の歌碑】裏面に加茂季鷹の「なへて世の袖にもつゝめ梅ヶ香の昔にかほるそのゝ春風」の和歌を刻してゐる。門を入つて左方に、曾我兄弟の碑と稱するものがあり、庭園には多くの萩を植ゑ、【萩の寺】萩の寺の名がある。【今井家墓碑】墓地には今井家累代の墓碑があり、【十王堂址】十王堂址と稱せられて居る。傳へいふ、織田信長堺の魚市に重税を賦課したが、時の十人衆は其命令に服せなかつたので信長之を安土に召して、自裁せしむるに及び、其中二人は竊に遁歸つて事を堺町中に告げて復自殺した。因て市民十王十體を作つて、其靈を弔ふたものであるといふ。或は現櫛屋町東四丁誓源寺は、始め十王堂極樂寺と號し、もと南宗寺の西方にあつて、元和の兵燹に燒失し、其舊地を十王屋敷といふと。(全堺詳志卷之上)【乳守社と傳説】境内に乳守社がある。社は道守氏の一族が、祖神を祭祀したもので、道守氏は姓氏錄に、和泉國道守朝臣、八多八代宿禰之後也と見ゆるものが、卽ち是れであると泉州志に見えてゐる。又住吉神名記には、之は津守神社のことで田裳見宿禰を祀り、俗に乳守明神ともいふと記して居る。後説或は眞に近からう。俗説には應神天皇に乳を奉つた神を勸請したものであると云ひ、又此處の地主神を祭祀して、津守明神と崇信したが、乳の出ぬ女の社名を乳守と聞誤つて、此神に祈つたが、靈驗があつたから、乳守社と呼ぶやうになつたと云つてゐる。(和泉名所圖會卷之一)昭和二年一月、【芭蕉句碑】庭前から「口切にさかひの庭のなつかしき」と刻した芭蕉翁の句碑が發掘された。