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(二四)經王寺

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 經王寺本覺山と號し、【位置】九間町東二丁字經王寺前町にあり、日蓮宗妙覺寺末で、寺格紫金襴跡。【開基】永享元年京都妙覺寺第九世大聖院日延、教化して堺に來り、南庄に一宇を創立したのに始まり、後第三祖日教北庄に移り、宏莊なる伽藍を創立し、宗風頗る隆盛を極めた。(經王寺緣起)【沿革】元和元年兵燹後三十五年間退轉に及んだが、江戸梅龍寺權大僧都日達、之を聞いて再興の念を起こし、松平安藝守の簾中自昌院(法名清進信女)に請ひ、其外護によつて慶安五年八月功成り、落慶供養を行ひ、(經王寺文書)本尊佛、宗祖日蓮木像、鬼子母神木像、日朗木像、(各木像裏書)及び經卷等を寄附せられた。(經王寺文書)當時塔頭八坊を有したが、(由緖覺書)後漸く衰頽し、寶永元年の交には支坊金藏院のみとなり、菩藏教藏の二院は廢絶した。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【印寺領】寺領としては豐臣秀吉踞尾村に二十六石の印を寄せ、德川幕府亦之に倣ふたが、(經王寺文書)明治四年正月上地した。【本尊】本尊は題目寶塔、釋迦、多寶二佛上、行、無邊行、淨行、安立行の四菩薩である。【堂宇】明治二十五年九月本堂を除き、代ふるに七面堂を以てした。外に庫裏、鐘樓、門及び番神堂があり、境内千八百五十八坪を占めてゐる。(社寺明細帳)【石碑】堂前に芭蕉筆塚、門頭に日進孝教碑があり、【什寶】什寶に童形妙見大士一軀、藤原重信筆涅槃像等を有してゐる。