第百四十四圖版 百舌鳥耳原北陵
【參道】御陵參道は高野鐵道堺東驛の南踏切を東方に進んで更らに北へ折れ、東に曲ればやがて正面に達する。正面には拜所があり、左右に風致林がある。【規模】御陵の總面積一萬一千七百十八坪を有し、其規模環隍を廻した二段山作の前方後圓で、南方を正面とし、前方の徑八十二間、幅六十三間、高さ四十五尺餘、後圓の徑四十七間、高さ四十六尺を有し、環隍は周圍四百四十七間、滿水時の水深十尺、其御下賜水は附近田畑三町步の灌漑用に充用されてゐる。(陵墓誌)
【陪塚】陪塚は東方に二箇所あり、一を鈴山、一を天王といふ。鈴山は前方部の東南方に位し、六畝二十一步、天王は鈴山の東北に存し、反別二十六步を有し共に圓墳である。(陵墓誌)德川時代に於ける御陵の規模は山の惣廻り二百三十間、東側七十六間、西側八十間、南側五十七間、北側二十八間、南山(前方)の高さ水際より七間三尺五寸、北山(後方)の高さ同じく七間一尺五寸、中程(前方後圓兩部の境)の高さ同じく五間一尺を有し、南峯(前方)の馬踏東西十二間、北峯(後圓)の馬踏東西九間、南北十間半であつた。御廟所(御所在)は北山(後圓)の乾の方にあつて窪みは東西四間半、南北五間半、深さ一間餘で、直徑五間、周圍十九間の間は竹垣を廻し、環隍の幅は南十四間、北十八間、堤は東西八十二間であつた。(元祿八年改堺手鑑)當時御所在附近に於て東西四間半、南北五間が間は約一間ばかり低下して石の唐櫃(石廓か)石棺が露出し、石棺内部には一物も留めなかつたが、其蓋石は長さ一丈五寸、厚さ八寸であつた。(全堺詳志)【修復事業】元治元年世論に刺戟せられて修復を奉仕し、同二年には勤番が定められ、其奉仕の規約さへ定められた。(深井文書)【明治以降の取扱】明治以後宮内省、堺縣、大鳥郡、大阪府の管轄を經て再び宮内省諸陵寮の管轄に歸し、陵墓守長、同守部が置かれ、數度の修理を經て今日に至つた。大正六年五月八日東宮裕仁親王(今上天皇)同十一年十一月三十日皇后(皇太后)が何れも御參拜あらせられた。昭和四年六月堺市より仁德、履中の二帝陵と共に御陵奉賛會を組織し、其愨德を偲ぶこととした。