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(四)大濱公園

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 【所在】大濱公園は市の西部海岸に面し、南、南新、北の三公園を總稱し、【面積】總坪數七萬七百十二坪七合七勺を有してゐる。【南公園】就中南公園水族館庭園、同園西門筋以南、同以北、海岸接續地を合した三萬五千二百八十一坪五合三勺を指し、大濱公園の主要部分である。
 【水族館庭園】〔水族館庭園〕 【面積】水族館庭園は東に阪堺軌道を隔てゝ大濱北町の民家、西は水族館庭園西門筋、南は阪堺軌道を隔てゝ水族館庭園西門筋以南、北は港口に接した一萬三千七百九十六坪七合七勺の境域で、周圍に築山を繞らし、【規模】其間二、三の通路を設けて他の諸園と相連絡し、東西二門を附し、東南の一部に蓮池を穿つてゐる。此遊園は第五囘内國勸業博覽會開催に先ち、宮内省内匠寮技師福羽逸人水族館の建築物を中心として設計し、其後更らに添設したものである。(堺市政三十年史)其規模西北隅高臺の下に東面して水族館を設け、前庭として舊南砲臺の疊石を以て林石を構へ、佛蘭西式を模してゐる。(堺市水族館要覽)園は運動場と花壇とに分たれ、運動場の中央に龍神塑像の噴水を設け、花壇には鳥獸舍と園舍とを配し、東北、西方には植込を作つてゐる。
 【園内順路】阪堺軌道水族館前停留所前から西南に曲り表門を入れば、門内東方に堺倶樂部、【公會堂】東南に公會堂があり、【水族館】花壇の北方に水族館が聳えてゐる。水族館は階下を土間叩き、格緣付板張の天井とし、周圍の壁は羽目板張の漆喰塗、目通に魚槽を配列してゐる。【魚槽】魚槽は各地方特色ある海底と木津川の峽流とを模した二十九個の水槽と、保健槽八個、海獸池一個とよりなり、各魚槽に鹹水、或は淡水を湛へ、側面に張つた倫敦製厚硝子を透して放養した魚族の生活狀態を透視させてゐる。放養の魚族には水母類、甲殼類、腔腸動物類、珊瑚類、海鞘類、海膽類、腹足類、斧足類、辨鰓類、海星類、海鼠類、海百合類、哺乳類、龜類、頭足類、兩棲類、鹹水魚類、淡水魚類、金魚類、水生昆蟲、海獸等水中動物の殆ど全般を綱羅してゐる。(堺市水族館要覽)【御便殿址】階上は 明治天皇大正天皇昭憲皇太后等の行幸啓の御場所で、御便殿を保存してゐる。(明治天皇行幸遺蹟參照)【參考品陳列所】水族館本館を出づれば東南土堤下に參考品陳列所があり、西方築山の麓には東洋捕鯨株式會社の手で捕獲した鯨骨の陳列場がある。【商品陳列所】更に西門より東方園内を進めば南に商品陳列所、【神明擁護璽】其東、蘇鐵山の麓に神明擁護璽と題した安政地震記念碑がある。一に津浪碑とも稱し、初め御蔭山に建て後蘇鐵山上に移し、更らに當所へ移したものである。(文久改正堺繪圖)

第百五十六圖版 大濵公園區域見取圖

 
 
 【南臺場址】當園は幕末に築造した南臺場址で、其遺址としては水族館前と公園前との兩停留場を繫ぐ軌道西側の蓮池は外堀の殘りであり、當園表門より水族館本館裏手に至る土堤は疊石の遺構である。殊に本館裏手の土堤にある盛土の場所は煙硝の置かれたところと傳へ、何時の頃よりか小祠を安置してゐる。(堀家惣太郞氏談)
 【水族館西門筋以南】〔水族館西門筋以南〕 水族館西門筋以南とは俗に南公園と稱する方面で、【面積】其周圍東は大濱北町の住宅地、西は海濱接續地、南は相生通の道路を隔てゝ南新公園、北は阪堺軌道によつて水族館庭園及び同西門筋以北に接した六千二百四十五坪七合七勺の面積を包有し、初め阪堺電氣軌道株式會社が市の委託によつて公園施設を試み、後市有に歸したものである。【施設】公園としての施設は西方貸下地を除いて運動場を中心に西南及び北方に園池を配してゐる。
 【園内順路】阪堺軌道大濱公園前停留場から南すれば公園の北を劃する築山がある。築山の南は池水で其間小路を通じ、南一帶は運動場となり、種々の催物は多く此所で行はれる。
 【水族館西門筋以北】〔水族館西門筋以北〕 南公園の一部は大濱通の官有地にある。【面積】周圍東は水族館庭園、西は海岸官有地、南は前記西門筋以南、北は堺港港口に接した一萬三千三百五十坪二合一勺を有し、道路園内中央を通じ、其南端に阪堺軌道大濱海岸停留場があり、道路の左右官有地に料亭、旅館、大濱潮湯等がある。

第百五十七圖版 水族館庭園配置實測圖

 
 
 【海濱接續地】〔海濱接續地〕 水族館西門筋以南の西側に當り、大濱海岸通にある官有地である。周圍東は前記西門筋以南、西は海岸官有地、南は南新公園及び海岸官有地、北は水族館西門筋以北に接し面積一千八百八十七坪七合八勺。眺望すぐれ、汐干狩、海水浴、【魚市魚市の年中行事が遊覽客を聚めてゐる。殊に魚市は每年五月一日より十月三十一日に至る間、每朝魚問屋が各地方より齎した魚類を此海濱で取引し、就中七月三十一日には夜市を行ひ、盛況を觀んとて徹夜四方より來集のもの頗る多い。
 【南新公園】〔南新公園〕 南新公園は大濱南町に所在し、【面積】周圍東は大濱南町の住宅地、西は道路を隔てゝ海岸官有地、南は大濱南町を隔てゝ、西湊町、北は南公園に接した二萬五千九百二坪一合の區域で、以上の諸園中最も廣大である。【大濱飛行場】南方の日本航空輪送硏究所は大濱飛行場と呼ばれ其水上機は、遠く九州、四國への定期航空を行つてゐる。
 【北公園】〔北公園〕 俗に北波止公園と稱し、吾妻橋通四丁に屬してゐる。【面積】周圍東は港内及び吾妻橋通四丁の民家、西は海、南は港口を隔てゝ南公園水族館及び民家、北は埋立地に接した面積九千五百二十九坪一合四勺、東西に長い半島形の公園である。地籍東方は官有地、西方は市有地に屬してゐる。港口南部の諸公園に比して交通は不便であるが、眺望は頗る勝れてゐる。【潮干狩】其埋立附近は潮干狩の名所として知られてゐたが、今は埋立てられた結果、北方三寶の海岸地先に移つてしまつた。【施設】園内の施設は餘り人工を加へられず、僅に料亭數軒散在し、【菅原神社御旅所】菅原神社御旅所、【浪除住吉神社址】浪除住吉神社址、吉川俵右衞門碑などがある。菅原神社御旅所は東方樹籔の中にあつて每年九月十四日神輿の渡御所となり、浪除住吉神社址は御旅所鳥居の南方、港口の護岸近くに建ち、正しくは住吉神社といふ。(住吉神社囘答書)文化十三年五月港内の風浪和靜ならん事を祈つて勸請し、萬延元年六月堺港北灣戸開鑿と共に現在舊址に移り(神明神社記錄)明治四十一年九月宿院住吉神社御旅所へ遷座して同社の境外末社となつたものである。(住吉神社囘答書)
 【北臺場址】北公園の西方は北臺場の舊址で南臺場の舊址に比し當年の遺構を示すものが多い。卽ち東西三十七間四、南北二十一間餘の地域を約二間半ばかり掘り下げられ、底邊東側三十六間、西側三十三間二、南側二十間三、北側二十一間三。此窪地中の南北にある二個の土壇は砲門置場址で、高さ各八、其幅員南は東西七間二、南北四間四、北は西側を多少削り取られてゐるが、底邊に於て猶東西三間三五寸、南北七間二を存してゐる。

第百五十八圖版 北公園實測圖